2017/06/14

人車・軽便鉄道と地域絵葉書

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CD-R版 小田原早川~熱海「人車・軽便鉄道と地域絵葉書」ヤフオクで絶賛発売中です

ちょこっとだけ手伝ったので、1枚頂きました。ありがとうございます
PR用に、もっと早く告知せんといかんかったのだが、
ここの処ゴタゴタしてたので・・・ようやく全部見終わった処だし

熱海街道(小田原~熱海)の明治大正絵葉書による歴史解説で、
単なる紹介ではなく歴史物として十分価値のある物になってます

特に豆相人車鉄道、熱海鉄道(軽便)は、沢山の絵葉書がありながら、
ドコで撮った物か(私にすら)判断が難しいのに、アチコチ現在の場所と対比してるのは凄い
ここら辺は絵葉書の発行者・撮影者を特定できる能力あってこそです

さて、ちょこっとだけ内容紹介。やはし人車、軽便という事で・・・

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門川から伊豆山に向かう軽便、先に見えるは大黒崎で、専用線区間を走ってます

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そして稲村手前で、交換の為の擦れ違い複線となってる場所。ううっ、こんな絵葉書あったんだ
大洞台バス停付近

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伊豆山停車場。このように絵葉書に合わせた現在の場所が撮影されてるので、リアリティがある

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伊豆山停車場は、手持ちにもデータがあるので、そっちからちょい大き目に
既に軽便時代で、伊豆山では道路上にレールが敷設された軌道(併用軌道)になってます

時代が?なのですが、自動車の通行が行われる以前と思われ
軌道法では併用軌道する際、既存の交通機関の邪魔にならんよう、
道路を広げて敷設する事が定められていて、此処では右側が「残された車道幅」になってる
(軌道法t13年じゃなく、、ええと、この時代は軌道条例m25年か)

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先ほどの交換複線の絵葉書、、、非常に見辛いので色々補正しました
谷地形っぽいトコに石積みで広場を造り複線を敷設したみたいです

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大洞台バス停付近付近のこの場所。併用区間らしいのですが、、
絵葉書では軌道以外の車道余地は無いような、、、

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ソコよりもちょっと大黒崎寄りのこの辺なんかどうでしょうか?
なんで此処に井戸があったのか不思議だったんすが、擦れ違い交換場なら、必要ですよね

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また、門川停車場と伊豆山停車場の間、、中間に近いコッチ(水色矢印)の方がお勧めです
両停留所間は「山越え」となるが、門川より伊豆山の方が標高が高く単純に距離の問題では無いけど
大黒崎の門川側(紫矢印)にも谷地形あるけど、門川に近すぎる

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実は稲村交換の件は、他資料にも色々出てて

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「稲村駅」として書かれてるのもあります
本来の稲村とは離れてるので、擦れ違い交換の為だけと思われる。駅と言っていいのか疑問も

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fe-4e/bazu55555/folder/725107/02/32608902/img_1_m?1459738243

全てを見た訳じゃないが、稲村は駅では無かったと思われます
そういう擦れ違い交換場は、単線なのでアチコチにあり、一休みする場所でもあったようです
人車の人夫だけでなく乗客すら大変でゲロゲロだったとかなんとか

もっとも人車時代は、擦れ違い場以外のトコで上り下りが対面し、
片方を「ヨイショ」とレール外に追い出して擦れ違うなど、高度な運転も行われてたそうだ
(もち衝突なんてもあったろうが、脱線は度々なのであまり気にならなかったんだろか)

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稲村駅の件は、コレが元ネタか?幻の人車鉄道/伊佐 九三四郎(1986年初版)

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本文の方に期待したのだが、稲村付近はスルーだった

稲村が駅でなく擦れ違い場としてたのは、実は軽便ならではの可能性が有る

人車時代はお勧めの場所でも良かったが、軽便では蒸気機関の為水を補給する必要がある
水源確保を容易にする為、ひとつ伊豆山側の谷に移動したと推測
コッチの方が流域面積は広そうだし
とはいえ、その谷ですら常時の流れは期待薄いので、谷水を集める枡とか設ける必要はありそ

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もうひとつの着眼点、絵葉書は併用軌道なのか専用軌道なのか
豆相人車の絵葉書/写真は、やたら狭い路盤上での撮影が多く、
コレで併用軌道と言われたら凄く困る

【本CD-Rではそれらの絵葉書が何処で、併用/専用区間なのか判るのでお勧めです】とPR

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車道と言っても、熱海街道(小田原-熱海間)に自動車が走り始めるのは大正になってから
(そもそも自動車の一般への台頭がその頃からなのだが)
富士箱根の乗合自動車は大正6年から開始されてる

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じゃ人車の頃の熱海街道は何道だったのか、、他力本願でも申し訳ないが、この一枚に集約されてる

そもそも熱海街道は江戸時代、箱根関の脇関所として根府川に関所が設けられており、
自由に通行にはできんかった
物流は海路だったろうし、山道っか無かった

そこに人力車を通す道を造るというから大変かと思いきや、
明治13年4月1日より工事開始して半年余りで千歳川まで、明治14年10月というから、
1年半で人力車の通行が出来るようになったとは素晴らしい

箱根(湯本)で福住正兄が車道を造る際、
より立派な東海道から車道化ですら苦労し、7年もかかったのに
(小田原-湯本間だが、馬車通行も可なので道路としてのスペックが違うからと思われる)

話を戻して、この明治14年に開通(全通)した道路が、熱海街道の初車道となる
人車軌道は、この道路を中心に敷設される事となり、明治29年に開業する

長らく明治地図だけで熱海街道はあーだこーだ探ってたが、
人車の為に当時としてはかなり正確に測量が行われ・・・

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こんな資料が残ってるとは、涙がちょちょ切れる程嬉しい
(注.それでもかなりズレは出るが距離とか山谷はかなり良い)

人車の軌道を敷設する際、人力車道では余りにもアップダウンが多かったのか、
この図では併用より専用の区間が多くなってます・・・が、
費用対効果や投獄やホントに色々あって、人車軌道は何度も見直され、
結局併用軌道を多く用いる事になりました

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軌道も熱海側から造られたんで、コッチ側が先行
明治28年7月に吉浜 - 熱海間10.4kmが、明治29年3月には小田原 - 吉浜間14.4kmが開通
当初は早川渡ったトコまでで、明治33年6月に延長され、現国道1号の小田原電気鉄道と連絡する
(以上Wikiより)


めでたい、、、じゃなく、車道/併用軌道の件だ
人力車が通るようになった道幅だが、明治期の一般的車道2間(約3.6m)は、、ちょい無理だろ
険しいトコは擦れ違い不可で、8尺(約2.4m)位、
その他の区間が2間位、、が一般的なのでその位

そもそも人力車で擦れ違いできない場所に軌道を敷設したら、アチコチで離合できんから、
軌道幅(車体幅)1.5m位は広げた筈である

先程の擦れ違い場所に2.4mの余裕が有るかどうか・・・

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推測だけじゃ物足りないので、定番である橋梁の年代データ、
熱海街道~国道135号線/小田原~熱海間であるが、、、
実は古い明治大正期のデータはまだまだ揃ってないので、、っうか、あるんか?

人車、軽便の開通である明治28、29年/明治40、41年には橋梁にも手が入ってる筈なんだがなぁ

小田原側は早川橋中心に4尺(1.2m)幅の人道から、明治25年には早川橋/4.5mまで広がってる
明治34年まで幅は変わってないので、人車併用軌道としては、この幅が一応の目安になる

明治40年に2間3尺(約4.6m)と、軽便になるんにあんま変わってない
1917年(大正6年)に5.4m幅になってるが、これは自動車の通行を考慮してだろう

てな数値が、千歳橋、逢初橋辺りで出てくりゃ、大体完璧なんだがな
いかんせん隣の県なんで、資料漁りも結構大変で、、この辺は後の私に期待だな(頼んだ)


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橋梁データ以外にも、割と正確な熱海街道図があるんで、古い航空写真と照らし合わせながら、
明治14年車道の位置を探したりもしてます

ぁぁ、この軌道位置が正しけりゃ、まだ見つけてない軌道も、なんとかかんとか、なんだがなぁ
(もっとも関東大震災の被害は尋常じゃなく、斜面道路ごと海に転落してる場所が多々なんで、
未発見の専用軌道場所が判ったからと言って、軌道跡が見つかる可能性は凄く低い)

後、内部連絡的に早川橋の件があるんで、そっちは後日
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コメント

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No title

上記CDの鉄道部門を担当した一人です。興味深く読ませていただきました。
稲村交換所については私も興味持っていまして、鉄道ダイヤから位置を検討したものを含む文書を下記URLに載せてあります。一読していただきご意見を頂ければ幸いです。www.ne.jp/asahi/earth/kosuge/zusoukeibenn/zusourennrakuv_2.html

No title

古道好さん、こんにちわ。亀レスになって申し訳ない

拝見させて頂きました。良く出来てて素晴らしい
真鶴付近の軌道位置、随分大変だったと思います

件の稲村駅の件ですが、真鶴-熱海時代に駅昇格になったんでしょか
その時代の時刻表、そういや見て無い(T11~T12と僅かの時期)

どうして稲村が駅になったのか、ちょい興味が湧きますね
熱海線建設の為、、にしては泉越トンネルの間なので、工事の為じゃなさそ

人車時代の稲村付近交換所、ダイヤグラムにすると成程納得です
字もアソコじゃ小黒崎です

ただ、実際の字を名称にするかは別で、近くのメジャーな地名が付く事多々あるし、
石積みの高さからするとソコソコ深い谷なので、ホントにそんな地形だったのか・・・
震災~道路工事で跡形も無さそなので、確認は出来んのがまた辛いです

これだけ纏めた資料は他にないと思うんで、何かしらの形で公表するのでしょうか?