2013/10/10

旧熱海街道/宝石楼

なんとかスケジュールがこなせる見込みがたったので、ひと段落です
忙しい中、ちょい探索の余力は無かったのですが、その分図書館で資料をコピる時間は取れた
その中から、何度か話が出て来た早川の宝石楼について


https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_30902088_0?1381411886

早川河口、旧熱海街道沿いにあった宝石楼は、明治41年頃に開業したらしい (一枚の古い写真解説)
明治43年8月11日に発生した関東大水害によって流失 (東京朝日新聞記事より)

この宝石楼は早川河口に建造されたのだが、中洲に造られたと書かれた文献もある
いったいドコに建っていたのか・・・

「昨日の道去年の坂」に何枚かの写真が載っていて、場所についても解説されてたので紹介する

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_30902088_1?1381411886

早川橋から見た宝石楼。先例の写真と比べると違う建物のような気もするが、視点が違うからだろうか
右手が川下、直ぐに相模湾である

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_30902088_2?1381411886

同、早川橋を小田原側、すなわち宝石楼前から撮ったモノ
熱海軽便鉄道は、明治41年(Wikipedia)に蒸気運転を開始している

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_30902088_3?1381411886

あやめ橋と宝石楼(左端)
宝石楼の熱海側に早川橋が架かっているので、こちらは小田原側という事になる

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/109946/img_109946_30906220_14?1381587700

追加.あやめ橋、拡大

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_30902088_4?1381411886

溜川橋

解説によると、小田原方面からあやめ橋、早川橋、溜川橋と3本の橋が架かっていた

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_30902088_5?1381411886

早川河口付近で、正確な時代の近い地図というと、コレになる
神奈川県下東海道線早川近傍実測図/明治9年

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_30902088_6?1381411886

当て嵌めて見るとこんな感じかな・・・

早川橋が早川本流に架かってるとして、あやめ橋は小さな川(小田原用水系)が早川に合流する部分
写真でも「流れ」では無く溜まってる状態なんで、恐らくココだろう

溜川橋は早川橋からちょい離れた位置。早川橋の写真に人家が写りこんでるので、
その向こうの木が植わってる場所として、ココを推定

さするに宝石楼はピンクの場所となる
中州というにはちょいと微妙な場所だな

この早川橋は、現在架かってる(旧)早川橋より若干上流側に架けられていたようだ
橋も宝石楼とともに水害で流されている

早川橋は1917年に再び架けられたが、宝石楼は再建されなかった
僅か2年のみの営業であった
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コメント

非公開コメント

No title

お疲れさまです。
宝石楼の位置は、おそらく図示の位置で間違いないように思われます。この位置と仮定して、写真について考えてみます。

一段目の「一枚の古い写真より」の絵葉書は、早川橋側から撮影したものでしょう。とくに最初の一葉は、「早川橋」の上から写しているように見えます。2枚目は、1枚目の右端の建物の右隅の方向、1枚目の小橋が入らないほどの右寄りの角度からと思われます。地図に青色で民家とある中州の右端の角あたりかもしれません。とすると、遠景にある岬状の茂みは、現在の南町方面にあたることになります。
この両者を比べてみると、1枚目の左寄りに門があり、そこから右へと板塀が続いて、端の方で終わっているように見えます。そこから、1段低い塀のような、護岸のようなものがはじまって、回り込んでいるようです。門の方から小橋へ向かう小径も、塀の外に見えます。また、門前の左、つまり、熱海街道側にも小さな建物があるようです。また、小橋付近の護岸の状況は、河原の植生があるようで、不明ですが、石垣のようには見えません。

No title

2枚目は、よくみると、1枚目の板塀より低い位置に竹垣のような透過性の囲いがあり、その下に石垣の護岸、それを木製の杭が外からさらに護っているようです。板塀の末端がどうなっているのか、写り込んでいないのか、不鮮明ですが、1枚目の右端に見える一段低い塀のようなものが、竹垣かもしれません。おそらくこれは、相模湾の景色を眺望させるための仕掛けなのでしょう。さらに高解像度の画像は「熱海線/早川橋梁(もち旧ネタ)」のコメント欄に示されています。

No title

二段目から五段目の典拠は「昨日の道昨年の坂」とありますが、これらはいつ頃の写真なのでしょうか。ほぼ同時期と仮定して、考えてみます。問題は、疑問を提示されているとおり、二段目の写真ですが、これはとばして、他の写真を見てみます。
三段目は「早川橋」と親柱にあるので、小田原方から眺めたもので間違いないと思います。背景の山並みも早川方面のかたちに見えます。
四段目の「あやめ橋」も、背景の山並みからして間違いないと思います。地図にある、「あやめ橋」下流の橋から撮影したものではないでしょうか。石垣がすぐに河に面していて、透過性の柵が続いています。塀と石垣の間に余地はなく、小径もありません。さらに、「あやめ橋」の形状に注意しておくべきでしょう。早川橋と同様の欄干の柵の形状に見えます。
五段目の「溜川橋」は、これら二つの橋に比べると、欄干の形状が異なり、古風な木橋のように見えます。背景も三段目の山並みと相似で、最も熱海よりの橋で間違いないようです。

No title

さて、これらを確認したところで、二段目の写真を考えてみます。キャプションには「早川橋」とありますが、果してそうなのでしょうか。たしかに、背景の茂みのかたちが、一段目2枚目の南町あたりと思われる茂みのそれと類似しています。もしそうだとすると、一段目一枚目と建物等の見え方が相当に一致していなければなりませんが、お疑いのように、どうも様子が異なります。よく見ると、竹垣のような透過性の柵が敷地を取り囲んでおり、また、石垣の護岸があって、すぐに河に接しています。一段目にある門や板塀や門外の小屋もありません。小橋のようなものも、不鮮明ですが、確認できません。そこで、透過性の柵があり、石垣がすぐに河に面しているような写真をさがすと、「あやめ橋」を写した四段目のものが該当します。しかし、それでは、撮影の向きが逆になってしまいます。

No title

そこで、仮定ですが、二段目の写真は裏焼きなのではないか。したがって、左右反転させてみると、「早川橋」からではなく「あやめ橋」上から撮影した写真として、見ることができます。川の水位が低く、砂利が顕わになっていますが、季節の違いと考えることもできます。四段目にある宝石楼の右端の建物が、この二段目の正面の建物にあたり、四段目のこの建物の手前のそれは、二段目の正面の建物の奥に重なって見えているようです。
ただ、そうだとすると、二段目右端の茂みは南町ではなくて、反対の早川側ということになりますが、角度からしてこのように見えるかどうか、あやしい気もします。

No title

以上のように仮定すると、二段目だけ疑わしく見えるのは、解決することになりそうですが、如何でしょうか。或いは、撮影時期が典拠によって異なり、たとえば、二段目は大水で流出した後の状況だとすることもできるかもしれませんが、建物の配置がかなり異なるように見えます。流出後に再建されたりしたのでしょうか。

連投失礼致しました。

No title

粟船住さん、なかなか細かい推察、ありがとうございます

あやめ橋ですが、拡大してみた所、木欄干で早川橋とは違うようです
また、2枚目写真は橋の下の河原の状況から、やはり早川本流な気がします

宝石楼の建物がどんな構成だったのか、
複数棟あって、視点によって違う・・・とも考えられます

また、最初は2枚目写真の一棟のみ、
後に増築されて1枚目写真のようになった・・ともね

もっと写真が出てくれば、判るかも知れないけど、
明治の終わり頃、期間短しでは難しいなぁ

No title

連投失礼致しました。

あやめ橋はたしかに木橋ですね・・・。
やはり早川橋上からとすると、どうも様子が違うので、
43年に流出後に再建されて、それ以降もしばらく営業されていた、という可能性も、残っているような気がします。

No title

宝石楼については情報が殆ど無いので、それ故再建されなかったと思われるのですが・・・

水害の後(明治43年8月11日)、宝石楼の名が歴史に出てくるか、
気つけときます・・・あまり期待しないで・・・