2013/03/28

小田原市-二宮町/市町村境界の謎

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_30421840_0?1364396082

明治10年(1877年)作成の「神奈川県下東海道筋山西村近傍実測図」の一部抜粋
大元は「外国人遊歩規定測量図」で、その一部である

「外国人遊歩規程」とは、安政5年(1858年)に結ばれた安政五カ国条約のひとつで、
外国人が居留地以外を自由に行動できる範囲を定めたもの
開港場からの距離、最大10里(約40キロメートル)と決められており、
相模方面は横浜開港場から酒匂川東岸までと決められていた

この限界を巡って明治8年(1875年)外国公使等から苦情があった為、
明治9年(1876年)実測が行われ、これらの図が出来た訳である

まぁ~ぶっちゃけ「箱根行きたい」とかの要望があったんだろうなぁ

「外国人遊歩規程」に関しては、測量に使われた標石も一部残っている
解説も含めて詳しいサイトがあるので此処とか参照してくだされ

ハナシは初っ端から横道に反れたが、そういうネタではなく、
その実測図に描かれた村界が非常に不思議なのだ

山西村は、現在の中郡二宮町に辺り、小田原市との境から、二宮駅近くまで、
二宮町の海岸線の大部分を占める「大きな村」である

その西の外れ(即ち小田原市との境界)付近は、川勾(かわわ)村という地名が細切れに出現している

コレはアレに関係してるんじゃないか?

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_30421840_1?1364396082

小田原市と二宮町の境界線がグチャグチャな件である

当サイトでも東海道線/押切架道橋で取上げている

国道1号だけでも「小田原-二宮-小田原-二宮」と行ったり来たりする (標識が全部ある)

どうしてこうなった?

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_30421840_2?1364396082

当初は押切川(中村川)が、昔はグニャグニャ流れてて、それに基づく境界があって、
河川整理が行われてこうなった・・・
のかと思ったのだが、明治期の地図と照らし合せてもそれ程酷く無い

特に境界が二宮側(右側)にカックンと突き出てる部分の奥は低地では無いので、
川の流れというのもおかしい

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_30421840_3?1364396082

もっと昔の・・・江戸時代/天保9年(1838年)天保国絵図のを見てみると、
足柄下郡(含む小田原)と淘綾(ゆるぎ)郡の境となっており、
海岸近くでは中村川より西側に引かれてるように見える

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_30421840_4?1364396082

ではと、文化3年(1806年)「東海道分間延絵図」を見てみると・・・
東海道と塔台川が交わる場所(ピンク枠)に線が引かれてるので、此処が郡境のようである

中村川の方が大きいが、これはこの地が東海道/大磯-小田原宿間の間の宿(あいのしゅく)と
なっていて、中村川を挟んでサブ宿場として栄えた為らしい

この絵図でさらに明らかとなるのは、塔台川と中村川の間、「川匂村、羽根尾村/入会」と
書かれた場所がある事です

「入会(いりあい)」(地)とは、複数の村落で総有しており、薪などを集める入会山、
カヤなどを集める草刈場があります
此処は両村の草刈場だったようです

羽根尾村はあんたらかたらあって小田原市に、川匂村はひょぃひょぃあって二宮町に
共有していた土地は真っ二つにはならず、コマ切れとなってソレゾレの市と町に別れた

しかも、この時、川匂村、山西村の一部飛地などが、小田原市側になっています

結果、整理されたのか、より複雑になったのか、、、状況は判りませんが、
コレが小田原市と二宮町の市町村境が複雑になっている原因のようです


ヤレヤレ、やっと判明したな・・・・って、
最初の山西村と川匂村がゴチャゴチャしてるというのは、コレとは直接関係無かった訳だが

今はどーなっている?

町内なとで地域の色別してる地図、、と探してナビタイム的なトコで見れるようだ。どれどれ・・・

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_30421840_5?1364396082

しっかり継承してるぢゃないか! (注.見易いよう補正してます。しかも手作業(悲))

最初の図にあった細切れになってるのは、右下「山西」追加文字の上にある旧道だ(マーキング忘れた)
ソコだけじゃなく、アチコチで川匂と山西が入り乱れてる

どうしてこうなった?(でじゃぶ)

この地域担当のJPな人と宅配な人は大変だろうなぁ、ヤリたく無いゾ

先に述べたように、山西は非常に大きい地区で、この地図では西側ホンの一部しか見えてない
言い換えれば、山西(旧村)の西側にボソボゾと川匂(旧村)が入り組んで存在している

こうなった大元は、地図の上の方にある川匂神社が関係している・・・らしい

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_30421840_6?1364396082

時代は江戸所では無い程遡って、奈良時代、大宝律令とかなんとかあって
(昔習った昔の事なんで全然覚えてないや、、)「相模国」が出来る、、前の事

それまでこの地には「師長(しなが)」「相武(さがむ)」「鎌倉別(かまくらわけ)」と
大まかに別れていて、師長・相武にはそれぞれ国造(こくぞう)という官職が治めていたそうだ
(地方では地域の豪族が任されていたというハナシなんで、この辺もそーだと思われ)

で、地域毎に「一之宮」という社格トップの神社があり、師長国ではココ川匂神社が一之宮だったらしい

ハナシは脱線するが、師長+相武+鎌倉別で相模国となる際、
相武一之宮とドッチが一之宮を継ぐのかモメたらしい

結局、相武側すなわち寒川神社が一之宮となり、師長/川匂神社は二之宮となった・・・
コレが二宮の地名の由来である(ホント)


で、話を戻すとソレ程の社格のある川匂神社である為、社地を豊富に持っていた、、というのと、
鎌倉~南北朝時代に荘園があった為、、、

などという理由により、山西村(梅沢という地であったというハナシもある)から独立し、
神社特別地域的に川匂村が出来た。という説がある


ぃゃ、なにせかなり昔の事だし、はっきりしないのだ
別れたのは寛永17年(1641年)と比較的新しい(という位古い)ので、何か記録が在ればなぁ
コッチの件は、此処までしか判らんかった

以下多分続かない
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コメント

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No title

こんにちは。
毎日国道1号でそこを通りますが、こういう事だったんですね!
カントリーサインが何度も出てくるので不思議に思っていました。

134号の花水川橋は、山側の橋桁も橋脚に収まったみたいですよ!

No title

折々、川匂神社に参詣するのですが、
神社は「川西二一二二」なんですよね。

No title

ケさん、こんにちわ

ちょいと普通じゃない境だったので、こんな理由があるとは思いつきませんでした
自分としても意外です

花水川橋、いよいよですか。もう年度末ですしね

No title

粟船住さん、こんにちわ

そうなんです。神社自身は山西にあるんです

最も、昔はもっと北に500m程の処にあったらしく、
移った理由もはっきりしないそうで・・・
過去(1394年-1427年)に火災で消失し、古伝縁起など失われたそうです

No title

国一の小田原二宮堺線が入り組んでいるのは
昔からだったんですね^^;
大磯の相州総社六所神社が文家した順番が
一之宮高座郡寒川社 二之宮中郡川勾社 三之宮伊勢原比々多社 四之宮平塚先鳥社 五之宮平塚八幡社と聞いてましたが
それだけではない何かがあったんですね♪

No title

菊姫大吟醸さん、こんにちわ

通常、入会地は山ん中にある事が多いんで、
境界が変になってても、気付かないんでしょうね

河原が入会地になってて、その川が市町村境なら、
似たような状況になってるトコもあるかも知れません

今までは「川の流れがそうだったんだろ・・・」で済ませてたけど、
こういうケースもある、、というのが判った事も価値がありました

~之宮などの社格については、Wikipediaがソコソコ詳しく簡単に説明されてます
(もっと詳しいと言ってる事がチンプンカンプンなり)

単に神社のランキングだけては無く、
古代においては祭政一致など「クニ」の中では重要な役割を持っていたそうです