
基礎工行われてるんで、もう場所バレしても問題無いだろ
てな訳でこのネタです
場所はコチラ
8月にニュースとなった前方後円墳です
墳丘の廻りに周溝があり、それで前方後円墳というらしい
(墳丘に前方が続いて無い風に見えるが専門家が言うんで・・・)
前の図を方向合わせて発掘現場に合わせると、古墳は概ねこんな形になります
なぉ、近くには古墳と推測(墳丘は見つかって無い)される遺跡もあり、
城山/谷津で初の古墳じゃないらしい
地形的には谷津の稜線突端近く。割と平なトコなんで残ってたんかな
しかし、よりにもよって此処かぁ
此処は小田原城総構、北側上端付近
戦国時代に土工されてて、自然地形があんま残って無い場所になります
【赤字】このモッコリ、なんでしょね?ひょっとして古墳が描かれたんか?
(諏訪ノ原を含めて明治地図を総「目」スキャンしてみたが、他に無かった)
小田原城総構とはなんじゃらほい、なんて言う人はいないと思いますが、
戦国時代、小田原北条氏が小田原城下をぐるりと囲んだ
総9kmにも及ぶ堀と土塁です
そこいらの詳しい資料探してみたけど、大抵無い
北東の展望が良いトコだから、物見台とかあったと思うんだが
谷津にはそれ以外にも遺跡はあるんすが、
構造物は戦国時代に消え去ったのが多いのか、たいして見つかってません
(戦国遺構の下を掘らんと判らんモンもあると思うが、
何か建設でも絡まんとソコまでしないと思う)
一つ疑問が、、この地方の古墳と言えば、圧倒的に久野諏訪ノ原にあります
判ってるのだけでも100を越えるらしい(多くは小さな土饅頭)
諏訪ノ原台地の南側に多く、
久野川(山王川)沿いの台地に集落等があったらしい
谷津にも愛宕山等に住居跡があるんで、
そこらにも集落があったんでしょうか?別勢力?
歴史調べると、古代の海岸沿いに集落があり、、と誤解されてる例があり、
この辺でも久野低地は昔海だった説があり、現標高15m位な波打ち際とか
縄文海進は6千~5千年前に始まり、縄文中期の4千5百年前には終わってたなんていう研究結果もあるんで、古墳時代まで引っ張るのは無理がある
その諏訪ノ原の古墳なんすが、弥生時代頃から造られてるそうです
ん?古墳って古墳時代に造られたのでは?
と思うかも知れませんが、古墳の定義が違うんす
古代の墓という意味では盛土墓、墳丘墓が含まれるんで、縄文時代からあります
広義的には、古代の盛土墓や墳丘墓も古墳です
じゃ古墳時代の古墳って何なんだよ、
というのは前方後円墳とかが造られるようになった後の古墳で、
高塚も含まれるんで円墳もあります
何言ってるか判らんが、
古墳時代に造られたのが狭義的に古墳と定義されてる
同じ円墳でも奈良時代は墳墓、中世のは中世墳墓、近代は近代墳墓と、
形式とかじゃなく、時代で分類される(ややこい)
時代分類的に、古墳時代なんて設けてしまったのがそもそも・・・
谷津の前方後円墳が3世紀末と考えられてるので、諏訪ノ原のとも時代は被る
谷津の数基の中から前方後円墳が見つかるという事は、
諏訪ノ原にあってもおかしく無いと思うんすが、
それらしいのは見つかってなさそ(そもそも殆ど現存してない)
市立病院の下馬下遺跡も、発掘結果が楽しみですね
ちな、此処の標高は16.3mですので、発掘地はもちょい下の約13m程
勿論、海の下であはありません
山王川流域遺跡の遺跡はあんま詳しく無いんで、
とりま戦国時代の幻庵さん家でも
諏訪ノ原の古墳は、とりあえず4号でも載せとけば映えるだろ。でかいし
先の図で旧久野川とは別に古久野川が描いてますが、未確定です
微谷地形や明治湿田などから判断するに、
そこいらに川があったと思われるんすが
ホントにあったかは、掘り下げてみんと判らん
まだまだボーリングデータが少ないんで、今後の収集に期待
(市立病院、川沿いという事で地質調査行われてるらしい)
目指せ高アベレージ(違