
菊川は、山田村(現大井町)より流れ出て、下大井村(現小田原市)にて酒匂堰
(酒匂川取水/金手~森戸川放水/国府津の用水路)に流れ込む
菊川としては是で終わり・・・・
ではなく、足柄平野にはもう一河川、菊川が在る
上府中村(現小田原市)より酒匂村(現小田原市)に流れる「下菊川」があるが、
是は古くは「菊川」と呼ばれてた
現「下菊川」を渡る橋にも「菊川橋」と名付けられたものがある
(K719には下菊川橋もあるが)
JR東海道本線、下菊川を渡るのは「菊川橋梁」
「下菊川」という名も、上の菊川に対するものだし、
同一名は上の菊川と繋がっていたという証でもある
上下間にある酒匂堰で分断されてるが、元々は一本の河川であった
言うだけは簡単で、その証を求めて新編相模国風土記稿を見ると
早々に菊川の解説にある
【水色】菊川/源は足柄上郡山田村より出 上下大井村の境にて、酒匂堰に合し
足柄下郡永塚村に至りて再び別流となり、又此川名あり 酒匂村にて海に沃ぐ
酒匂堰で分断されたとすれば、酒匂堰の出来た慶長(1596-1615)の頃となる
永塚【赤】は酒匂堰【黄緑】と離れてるし、
下菊川【水色】と近いのは延清【ピンク】だろ、、
と思ったんだが、延清では村の東境を菊川が流れてる
本命の永塚には記載があった
【水色】菊川/村の西境を流る 下大井村にて酒匂堰に合し、当村乾の方にて再び別流れ
そして正解と思われる
【赤】慶長中酒匂を疎鑿(そさく/切り開いて川通)せられし時、
下大井村より当村に至るの際は、即菊川の流れを直に堰筋とせらる
やはり最初に菊川ありきで後に酒匂堰が造られ、
金手(当初は違うかも)~下大井と堰を通じ、堰を流す為に菊川も改修され、
永塚で菊川から分流し、国府津に至る堰が造られた。とも言える
菊川筋で酒匂堰が造られたのだが、永塚で分流したんは何故だろう
酒匂堰が造られたんは、ただ農業用水を運ぶ為だけでなく、
酒匂川の流れを制した事による排水目的でもあったのだが、次も理由と思われる
(1次どころか2次資料も見つからんので、全て状況から推測)
下菊川は鴨宮堆積段丘という「ちょっとした高台」を流れてる
故に(仮)下菊川谷とも言えるような3~4mの谷地を流れるんだが、
そこから左右の谷上に用水する事は出来ない
例えば酒匂堰の最下流取水堰は巡礼街道とJR東海道本線の間、川高13m程の場所である
直ぐ西に下菊川が流れてるが、川高は8.6m程
同程度の高さで下菊川から取水する為には、下菊川谷の落ち込み口まで遡らねばならない
下流域の田圃に用水する為に、谷に落ちる前に分流されたと考えられる
酒匂堰を酒匂川河口方面に流さなかったのは、国府津までの田園の排水の目的があった
酒匂川河口と国府津の森戸川河口の間の海岸線には、標高9mの海岸段丘があり、
直接海側に排水出来ない
その為に排水を集めて森戸川側まで流す必要があった
下菊川から左岸/国府津方の方が堆積段丘高いトコが多いんで、
下菊川沿いにそんな谷あったか~?と思われるかも知んないが、
県道718号鴨ノ宮停車場矢作線に限っても、道路のアップダウンがある
目立つのは小田原循環器病院から東へ浅間神社前までの坂(下菊川左岸)、
矢作の春光院前から鴨宮中学校入口までの坂(下菊川右岸)など
永塚の分流は現在跡形も無いし、古い地図でも描かれたのが無い
古い航空写真で片鱗でもないかと見るも、田の整理済みなんで全然判らん
永塚の現字域はピンク線で、酒匂堰を若干超えてるトコがあるんで、
赤四角か赤丸の辺りかな、、それとも区画整理で変わってしまってるかも知れん
中世酒匂川流域の件での、菊川分がようやく終わった