
電化される前の第二酒匂川橋梁、奥に見えるのは第二酒匂川橋梁
この時代は旧六郷川橋梁のトラスを使用していた
複線分残されてたが、旧下り線側を使用
第二酒匂川橋梁は、東海道線として明治22/1889年に単線で開通
明治34/1901年に複線化される
単線として開通した頃の第二酒匂川橋梁。ぇぇぇっ、橋脚が複線仕様ぢゃ無い!
ぃゃ、ひょっとしたら別のトコの写真を間違って、、、
と思って色々調べてたんだが、下部/橋脚・橋台の資料はタネが少なくて情報が足りない
コレだって明治27/1894年の資料で、当時単線だったんたが、
橋梁としてのサイズ、橋台・橋脚の形状とかはあるんだが、
下部が単線サイズとは書いてない
モンモンとしてたんだが、ついに見つけた
実際の施工図ぢゃ無くプランらしいが第二橋梁、単線の橋台・橋脚の図だ
(径間100ft(約30m)、全200ft(約60m)と2径間、すなわち第三と同じく橋脚一基)
実際の施工は3径間の橋脚2基となった訳だが、
現在の複線仕様で造られ、、、、て無かった写真があるんだよな
じゃ単線用として造られ、複線化の際に改造されたんか?
というんは、複線用として造られたのが半分だけ残ったにしては綺麗過ぎる
単線仕様で造られたのを複線仕様に改造され、片方だけ壊れたのでは?
第三橋梁沼津側直ぐの箱根第三隧道は
上り線が明治21/1888年、下り線は明治31/1898年建設となってるので、
上り線側の方が古い
第三橋梁も下り線側が後から付け加えられたんだが、
橋脚も単線用を複線用に改造し、古い側が壊れた。と考えられる
最初っから複線用として造る方が合理的だが、
箱根第五隧道~第三相沢川橋梁間のように並べるのは工事上難しく、
単線開通後「上下線を分ける」形で施工される可能性もあった
と考える事が出来る
第二、第三橋梁下部は同様かも知れない
複線化の資料とか有れば良いんだが、まだ見た事無いんで現地調査
第二酒匂川橋梁は電化、、じゃ無くその前に旧上り線側を使うよう、変更されてる
桁変更時の写真があった
架線工とかまったく見られないんで、電化前なのは確か
Wikiによれば第二橋梁の現在への桁変更は1965年に行われたとなってる
1967年の航空写真では第二/上り線、第三/下り線を通ってて、
橋梁間で上下線の移動を行ってたようだ
とおっ!と河原に降りて来た。方向は橋上と同じで沼津方を見てる
二脚のうち、沼津方の橋脚は水位目盛りが両面貼り付いてるんで判り易い
(アーチ下流側のレンガも流失してるが)
国府津方の橋脚を川央側から見てる
2つのアーチ間が継ぎ目の筈だが、石積みの下部にスキマが生じてて、
上に続いてる気がするが、気のせいかも知れない
反対側、川岸側から見ると、確かに石積みにスキマが生じてるようだ
上に続いてて草も生えてる
石積み上のレンガ積みは上下線が続いてなく、石積みが境になってる
コレって角石の部分を積み直したんじゃないか?
その上の平石も境のトコで継ぎ目がある
反対側は草で見えんが同様と思われ
(別写真でも隠れてて、丁度ソコから生えてるみたいだ)
続いて沼津方の橋脚、川岸側から
石積み上のレンガ積みは、国府津方と同じく石積みが境になってる
下の石積みは境が判らん
沼津方橋脚を川央から
レンガ積みの境は同じく。下の石積みの境は、やっぱ判らん
・・・当時は橋脚複線化改造なんて知らんかったから、そんなトコ注目して無かった
とはいえ、写真拡大しても判らんので、知ってたとしても見つけられんと思う
積まれてる石が違うとか、積み方で判る程のスキルも無いし
続いて橋台も見てく、国府津方。上のレンガ積みは橋脚同様境がある
下の石積みは植生が激しく、殆ど見えない
沼津方橋台。レンガ積みの境もあるし、そっから下のピンク矢印まで
縦方向に所々スキマがある気がする。草生えてるし
(別角度写真で確認したが、石積みに生えてるのはソコだけ)
写真も資料もあるんし、現地もソレっぽい処あるんで、
単線用として造られた下部工(橋台・橋脚)を、複線用として拡張して使ってる
というのは、ほぼ間違い無いと思われ
上下線のドッチが先か、は第三みたいにトンネルが直近にあれば判るが、
第二橋梁は離れてるし、両側曲線あるんで判らん
後は複線化の資料が出て来る、とか、壊れた時(ヤだなぁ)とか、、
ぃゃぁ、御殿場線もまだ知らん事があったんだなぁ
と締めようとして、まだ先がある事に気付く