
絵図を比べながら見てく。まずは瀬替前のBeforeと瀬替後のCleanup
Cleanupでは、流れこそ無くなったが河道は描かれてる
旧河川跡は田圃に振り分けられたが、そこに新たな道も造られ、青太矢印間には川跡に東西の道が出来た
この両者に描かれてる「その他の道」は基本的に同じ筈だ (黄緑マーク)
左手上流側は水害の影響で若干変わってるようだが、
村内を東西に走る室生社近くの「高台の道」、川より北(地図上)を走る「下の道」。それを繋ぐ道
恰好は違うが繋がりは同じだ
ルートが変更された、というんでは無く、絵図だから同じ道を描いてこーなった。と思われ
(水害で失ったとしても瀬替工事で行き来してる。元と同じような道が必要なんで復旧したと考えられる)
この「高台の道」と「下の道」も比較対象となる
左手上流側の被害はどんだけだったのだろう・・・
実はこの地図でも判るが、Beforeで皆瀬川傍にあった盛翁寺は、Cleanupで高台の現在地に移ってる
盛翁寺の歴史を調べてみると天光が天文元/1532年八町河原(八丁?)に庵を設けたのが最初で、
数年後に萩原に盛翁寺を設けたが、宝永5/1852年の水害により流失、現在地に再建とある
水害は半端なかったようだ。地蔵堂も被害受けたと思われる

続いて瀬替CleanupとAfter
2図の間は120年位あるが、比べてみると「高台の道」も「下の道」も健在である
それにプラスする「旧河道に造られた道」も同様に存在する
(室生社右側の道は無くなってる。描いて無いだけかも知れない)
道が変わる程の災害は受けてない/道は変わってないとして、
Afterの道のうち、青太矢印間を「旧河道に造られた道」とする
一応、念の為・・・
この間に足柄で被害の出た水害は享保10,13,16,17,19,宝暦7,安永8,天明1,寛政3,10,享和2,3年だが、
山北地方の被災記録は見つかってない (明治以前は疎い)
地震では天明2/1782年がある
(以上、防災科学技術研究所/災害年表マップ調べ)
天明2は「小田原地震」と呼ばれるが、被害は山梨県南東部-静岡県北東部-神奈川西部に分布し、
三県の境界付近の被害が大きい
震源は理科年表では相模湾だが、ちゃんとした論文で山北(高松山北付近)説なんてもある
小田原の被害記録はあるが、これまた山北地方の記録が無い
災害年表マップから漏れてる明和5、天明6、文化14年のローカル地震は箱根方面のみ被害
盛翁寺の例があるから、各神社仏閣も歴史も調べた
種徳寺(建立永正9/1512年)、成就院(建立不明だが安永5/1776年書簡がある)、
室生社(建立当初川村岸般若院、天正8/1580年室生山/丸山に移り、その後現在の天神社内)
被災の記録は見つからんかった
道が変わる程でかい被災は、宝永以降受けて無いとう事か・・・あれば引っかかるだろ

Afterから5、60年後位な明治地図(推定明治25年)
当然、Afterの天保7/1836年から明治初期の災害も検証。こちらも変わってないと判断
既に鉄道(明治22年~)が引かれ、それに合わせる道も出来てて、鉄道以前の道はドレだか・・・
とりあえず道を分類するのだが、陸地測量部地図なんで国土地図と道記号が違う
(さいでもって凡例が付いて無い地図が多いんで、余計判り辛くなってる)
時代的に違う気がするが、内容的には明治17年の凡例が合ってそうなんで、
それを元に 1.5車線道路/紫、1車線道路村道/茶、軽車道騎小路/緑 でマーク。徒歩道は除外
ううむ、なんとなくは判るが地図だと読み辛い
この間の災害について、、、念の為明治34年まで調査
安政2、3、4、6、元治1、慶応4、明治3、8、10、25、27、29、30、34年風水害
天保14、嘉永6、安政1、2、明治3、20、24、27年地震
だが、山北地方の被害で判明してるのは
嘉永6年/1853年地震で川村関所、都夫良野、谷ヶ村関所に被害
のみである
年表やデータベースのみの調査なんで、いささか調査不足だな
(災害史を纏める必要がありそだが、明治以降だけでも相当大変だったんで、かなり気が重い)
(参考
十文字橋。コレは松田被害のみ抽出だが、元となる県西被災一覧が出来てる)

鉄道で切れた道筋を調べるんは、航空写真が役立った
地図ではドコと繋がってたんか一部不明だったが、写真だと判り易い。およそ赤線が分断されてる
それに基づいて結んだ黄緑マークが「鉄道以前に繋がってた道」と思われ

After絵図と明治鉄道以前の道を結び付けるんだが、次に調べるんは用水路だ
道は改良等で新道が出来、ルートが変わってしまう事があるが、
用水路は流量や流域を維持する為、そう簡単には代えられない筈だ
・・・残念ながら専門外なので良いネタを探したが見つからない
「旧道沿い用水」がそのまま残ってるのが多いんで、確かだと思う
故に結びつけるんは用水セットの道が基本

Afterでは、山北の用水路が網羅されてる。
山北の用水堰で出た用水堰分布図

と比較しながら、絵図に描かれてる用水をマーク
旧河道に造られた新道は、途中「中通り堰」と沿い、
ルートが2つとなった向原方面は用水と沿っており、下側が旧河道に造られた道だ
北山根堰、南山根堰とは離れてる

続いて明治地図の用水堰だが、瀬戸堰からの中通り堰っか描かれて無い

現代地図では暗渠化で逆に判らなくなってて、、、無ければ創るしかない
幸い土地宝典の詳細図には用水路も描かれてるんで、補正して繋いで主要用水堰(幹線)をマーク
すんごく大変だった
詳細図は1軒1軒が描かれてるレベルなんで、ゼンリン住宅地図を繋げる気分
しかも北は合って無く縮尺は図毎に違い正確でないと、どんな呪いだ?
鉄道で随分変わってると思うが、それは鉄道沿い辺りだけと思われる
(注意.現在は県道76号山北藤野線、国道246号が出来、これまた県道国道沿いは変わってる)

それを明治地図からピックアップした鉄道以前の道(繋がってた道とその他の道)と重ねるのだが、
土地宝典詳細を見てて、なんか此処にも道があったぽいのも追加した

明治地図は正確じゃなく補正しきれない(道がズレる)のと、用水堰は現代地図で補正したんで、
鉄道以前の道も現代地図に補正
瀬替Afterに描かれてた旧河道に造られた道の特徴である
「中通り堰に沿っている」「用水を伴う2本の道」からすると、ピンクマークが「旧河道に造られた道」となる

それがそのまま旧皆瀬川跡となる。瀬替された上流部と、滝沢川・尺里川と合流する下流部は
資料が無いので推測だが、そんな間違ってないと思われ
(下流側は素直に蛇行させた方がソレっぽいなぁ)
上流部、今までハナシも出てこなかった懸案が色々あるが、それは・・・
次回に《続く》