開成町/旧々堤? #3
#2の続き

前回、河川曲線部の内側堆積なんて言ってたけど、
酒匂川が今のルートを通るようになったのは享保12/1726年(推定)
僅か300年あまりで、そんな地形は出来んよな、、
そもそも旧堤が出来て流れが変わったんで、内側に堆積する筈も無く・・・
じゃ、それ以前はというと、
旧河道がある通り、アッチコッチを流れてたんで、中央部には段丘すら形成されてない
(一説には一つの大きな流れでなく、幾筋もの小さい流れになってた設もある)
旧河道がある通り、アッチコッチを流れてたんで、中央部には段丘すら形成されてない
(一説には一つの大きな流れでなく、幾筋もの小さい流れになってた設もある)
て事は河川の浸食等で出来たとは考えられんな
するってぇとやっぱ・・・
するってぇとやっぱ・・・
宝永4年11月23日(←旧暦、1707年12月16日)に噴火が始まり、12月8日(同、12月31日)に終焉
足柄上地方には大量の降灰があり、
宝永5年6月22日(同、1708年8月8日)台風による大雨で、火山灰を含む土砂が土石流となり、
足柄平野を濁流で埋め尽くした。以後100年程続く
足柄上地方には大量の降灰があり、
宝永5年6月22日(同、1708年8月8日)台風による大雨で、火山灰を含む土砂が土石流となり、
足柄平野を濁流で埋め尽くした。以後100年程続く
てな災害史がある訳だが、
堤防の切れ~修復などの資料は数多くあれど、堆積物を扱ってる資料は、、、あった!
堤防の切れ~修復などの資料は数多くあれど、堆積物を扱ってる資料は、、、あった!
この時、大量のスコリア堆積物が平野上部を埋め尽くしたと思われる
1711年、大口堰は修復されてたがこの年決壊、16年間平野西側を流れるようになる(青マーク)
1726年、岩流瀬堰、大口堰とも修復されたがその年決壊
1727年、再び修復される。この堤が現在ある旧堤の起源とされてる(後壊れるけどね)
1726年、岩流瀬堰、大口堰とも修復されたがその年決壊
1727年、再び修復される。この堤が現在ある旧堤の起源とされてる(後壊れるけどね)
堆積物もこの頃までの氾濫域に集中してるようだ
以後、堰の一部修復と氾濫を繰り返す
1731年、酒匂川東側の土手が大破し、東流れとなる(緑マーク)
1734年、酒匂川全域で氾濫
1802年、穴部新田から多古、井細田、山王原と流れ出る(山王川筋という事)(茶マーク)
1734年、酒匂川全域で氾濫
1802年、穴部新田から多古、井細田、山王原と流れ出る(山王川筋という事)(茶マーク)
表層部2.5mまでは氾濫堆積物の確認されてる(赤線)
成層をなしてる事からすると、自然に積み重なったという事
成層をなしてる事からすると、自然に積み重なったという事
それ以上の深さは未確認だが、元地形との差から、最大で4~4.5mと推定(ピンク線)
噴火後のスコリア捨て場説(青線)
(降灰を河に捨てるんは下流水害の元となるので、当時禁止されてた)
は堆積物の確認が出来た事から否定的である
(降灰を河に捨てるんは下流水害の元となるので、当時禁止されてた)
は堆積物の確認が出来た事から否定的である
高台が形成されたのは、微高地東斜面に沿って洪水流が収束して押し出したと推定(赤線)
その為には上流のスコリア供給量の多い噴火後早い時期と考えられる
その為には上流のスコリア供給量の多い噴火後早い時期と考えられる
うむむ、これだけの調査結果があれば、
(班目・)金井島台地は、宝永噴火のスコリア氾濫堆積による形成で決まりかな
(班目・)金井島台地は、宝永噴火のスコリア氾濫堆積による形成で決まりかな
国土地図の地形分類で、金井島台地は人工の盛土となってる
明治20年頃地図と比べても、場所は重なる
明治20年頃地図と比べても、場所は重なる
スコリア氾濫堆積が、かなり有力な気がするが、一応コッチの説も検討してみる
面積をWEBで測れるマップ系で算出し、72、449.9平米
高さ4mとすると、土量は 289、799.6立方となる
高さ4mとすると、土量は 289、799.6立方となる
東京ドーム0.23個分じゃ少ないと思ったが、ダンプにすると 57、960台分である。・・・判らん
(高さ的に大した事無いと思ってたが、広さ的にヤバそ)
(高さ的に大した事無いと思ってたが、広さ的にヤバそ)
大水の際の避難場、、など考えられるが、規模がでか過ぎるだろ
人家の近くじゃないと意味ないし
(ここらでは無いが、地域によっては助命壇として造られた例はある)
人家の近くじゃないと意味ないし
(ここらでは無いが、地域によっては助命壇として造られた例はある)
てな訳で人工説を考えたが難しい、やっぱ自然地形かな~
だがまだ≪続く≫
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