
重文指定3兄弟の残りでもある、、

国道1号橋梁の残り、千歳橋と上流の玉ノ緒橋に取り掛かります

まずは塔ノ沢の歴史について、さらっと軽く
明治新道が出来る前、湯本に行くには早川を渡るんでなく、、、安政年間で既に橋架かってるんかい!

てな訳でもっと遡った時代、
湯本へ行くんは東海道(現役)の湯本茶屋から須雲川を渡って行き来してました
塔ノ沢は湯本から直ぐの距離ですが、直接行き来する道は無く、三枚橋まで戻って七湯道経由

塔之沢温泉は箱根七湯の一つですが、七湯の中でも一番新しく、
慶長10年(1605年)弾誓上人が発見したと言われています
夢想疎石(夢窓国師/1275~1351)が堂ヶ島温泉を開いたと言われてるので、
塔ノ沢は、古くから通行はあったらしいが、湯が出て温泉場として発展する
江戸時代初期には、箱根七湯として温泉場が成立してました
なぉ、七湯で一番古いのは、天平10年(738年)に開かれた湯本温泉です
川(早川)に架かる人道橋が玉ノ緒橋{人道橋時代からこの名だったかは不明}で、
宿奥の社が建ってる勝驪山の麓から、湯が自然湧出ていた

温泉といえばボーリングしてポンプで汲み上げるイメージだが、、

機械化される以前は横穴式湧泉である(明治22~33年頃から)
それ以前は、自然湧出、、すなわち湯が湧いてる場所が温泉場になった

箱根の温泉は中央の神山の北東山腹の堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀
東の芦之湯、そして早川/須雲川の下流の湯本と塔ノ沢に湧いていた
湯本、塔ノ沢は湯坂山山腹の両側であり、温泉のタイプとしてもほぼ同質らしい
鎌倉時代の街道は湯坂道で、入口である湯本は宿場として栄えたようだ

湯本は東海道の道筋であるし、七湯道の入口である
承応から天和(1652~83)になると湯本・塔ノ沢は湯宿も整備され、湯治場としても賑わった
江戸後期になると、湯治も兼ねた七湯巡りツアーも流行ったそうだ
山崎で合戦があった後、明治になると福沢諭吉が「箱根は道が悪い」と言ったので、
二宮尊徳の弟子の福住正兄と、
江川太郎左衛門英竜(たんなん)韮山代官に使えてた柏木忠俊足柄県県令
3人で道路開削プランニングが行われた(凄い人達の名が出てるがホントの事)

まずは福住正兄らが道路開削工事に着手し、
明治8年に板橋から山崎、
明治9年に山崎から三枚橋、
明治15年には三枚橋から湯場/旭日橋傍まで開通したが、この区間の道が悪く、
明治18年に改良が行われ、旭日橋も木トラスに架け替えられた
塔ノ沢中田/小川村長が中心となり、
明治19年に湯本~塔ノ沢の新道が開通する(明治20年頃拡幅改良)
宮ノ下の山口仙之助らが中心となり、
明治20年に塔ノ沢から宮ノ下の新道が開通する
(この頃の新道/車道は人力車・馬車用)

塔ノ沢を中心とした交通路推移
オレンジ/七湯道/人道路/?~明治初/
三枚橋よりハリストス教会避暑館(現湯寮)の前を通り、人道玉ノ緒橋を渡り塔ノ沢中心へ
旧熊野神社辺りから山道となり大平台経由で宮ノ下へ
ピンク/(塔ノ沢)新道/車道/明治18年(資料によっては明治19年)頃明治20年頃拡幅改良/
湯本より早川右岸の急峻地を通り新しく架けられた千歳橋を渡り塔ノ沢へ
青/(宮ノ下)新道/車道/明治20年/
塔ノ沢より早川右岸の山腹を通り大平台経由で宮ノ下へ。玉ノ緒橋架け替え
ピンク/(塔ノ沢)新道の早川対岸に「私の道」とあるのは江戸時代後期に開かれた人道だが、
温泉会館橋、じゃない函嶺もみじ橋辺りに架けられた橋は貧弱で、
早川が増水する度に流失する様だった

資料はまったく無いので推測だが、
函嶺さくら橋上流の早川左岸に残る「踏み跡らしき物」がソレかも知れない
緑のトコは(なぜか)踏み跡が残るが、岩場は判り難いので、一昨年の雪の時に撮っといた
難易度高そう

(塔ノ沢)新道が出来る以前の、千歳橋が架かる予定地
明治18年以前の筈だが、既に木造3階建が凄い(2階屋根の上に増築してる)
.20171002追記

同時期と思われる別カットの写真見つけた。1875年/明治8年
以上追記

もひとつ気になるのが、七湯道三枚橋方面が明治10年頃に改良されてる
湯寮から国道に降る人道だが、七湯道とは少しズレてる。だが、殆ど同じような勾配の筈だ

人道だった三枚橋から塔ノ沢までを、明治10年に拡幅し、人力車の通行が出来るようなったという
※明治9年に三枚橋まで福住正兄により車道が開通してる

最初の片スロープはトラップで、直ぐに無くなる

箱根登山鉄道/塔ノ沢駅からの道と合流
この先、小御堂の前で折り返すのだが、丁度ソコをメンテしてて、写真撮れず
七湯道に一番近い場所なんだがなぁ(ただし、道跡が無いのは前から知ってる)

最後は過酷な階段で国道1号に降りる

最後の階段は国道1号の開削と拡幅で削られたからと思う
階段上には道路改修工事の石碑があるが、昭和9年の塔ノ沢駅からの部分らしい

ようやく千歳橋のまだ無い塔ノ沢に降り立つ
源泉/元湯は玉ノ緒橋を渡った先だが、樋(とい)を使って湯を引いてたらしい
早川左岸にも宿がある
宿前の道が立派で宿門内に何か置いてあり、ひょっとして人力車か?と期待したのだが・・・

ようやく見つけた高解像度画像で山駕籠と判明。左下が乗車状態
この街灯はガスなんかな?電気来て無いみたいだが

人道の玉ノ緒橋を渡り、湯場へ
人道/玉ノ緒橋は数百年分なので、恐ろしく代がありそだが、形式的にはあんま変わらんだろ
少なくとも文献で確認したいとは思わない。人道橋だしね
(元湯 環翠楼は400年の歴史があるそうです。十年で架け替えとして40代か・・・)

塔ノ沢を後に熊野社の前から山道で大平台・・・
実はこの写真は車道開通後です。元々熊野社は勝驪山の上にあったのですが、
(宮ノ下)新道開削の為、勝驪山を削らねばならず、先だって熊野社は此処に移設された
通信線(電柱)も植わっているので、車道として宮ノ下まで通じてた事になります
此処の熊野社は明治43年の水害で流失
明治20年以前の七湯道/大平台方面は、七曲坂という難所だったそうだ
熊野社の移設先が旧七湯道の途中らしい

序章をあんま掘り下げても仕方ないので、とっとと(塔ノ沢)新道を開削しましょ
46年後に函嶺洞門が出来る場所です

千歳橋については左列の橋無を除いた写真、同一版を除いて20枚が見つかりました
さてさて、ちゃんと分類出来るんだろか
≪千歳橋編へ続く≫