2014/07/30

県道732号湯本元箱根線 開通年

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国道1号に対して「旧道」と呼ばれる県道732号線(湯本元箱根線)
旧東海道に並んで走る県道で、今までも何度か登場している

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開通記念碑
昭和42年から改修工事が行われ、昭和46年(1971年)開通に至る、、という改修記念碑だった


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旧須雲川橋 の架橋年は昭和5年(1930年)

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大正期までは旧街道がそのまま山道として利用されていたようである
一番判り易い七曲付近。書かれてる道路は「荷車を通ぜざる部」

赤ラインが後に出来る県道732号線

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ただし、明治39年に民設の湯本~宮ノ下~元箱根~箱根が国道に指定された後、
旧東海道が県道に指定される事はなく、
現県道732号線が県道に指定されるのは昭和35年(1960年)である

故にそれ以前の車道は、、、箱根町道となるんだろうか
箱根茶屋は早くから車道化されていたであろうし、畑宿位までは通じていたであろう
やはり難関は七曲か?

何はともあれ、車道としての全通は昭和初期頃と予想していたのだが・・・

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箱根町立郷土資料館の資料で、昭和4年に整備されたとある
二次情報であるが、昭和6年に乗合自動車の運行が開始されてる、まずは間違い無いだろう

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さするに、須雲川には車道としての橋が昭和4年には架かっていた筈である

現橋は昭和44年(1969年)、旧橋は昭和5年(1930年)、
その一世代前となる先々代の古橋は、スペック・写真共に不明だ
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2014/07/28

函嶺洞門バイパス工事

撮影日 2014年07月27日 前回2014年07月13日

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函嶺洞門バイパス工事の現場。バイパスは既に開通しており、トイレ等の施設を残すのみだが・・・

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落石防護幕の工事はまだ継続中
タイミングだと思うんだが、通りかかった時に施工してる姿を見て無い

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早川左岸の対象地は、以前ぶら下がりのロープだけだったが、
防護幕の主ワイヤーは既に張られていた。工事はちゃんと進んでるようだ

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そして新しい工事看板が出てる。駐車場整備。箱根町の施工かと思ってたんだが、県が行うようだ

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洞門の宮ノ下側にプレハブ小屋と架設トイレが設置されてた
駐車場整備も始まるようだ
2014/07/28

国道1号x小田原箱根道路 山崎IC工事

撮影日 2014年07月27日 前回2014年07月13日

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下の現場。2スパン目の架設が終わり、移動運搬車等の片づけがおわってから、動きが無い

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解説やスケジュールも外されてる。3スパン目の架設までちょい時期が開くんだと思う

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上の現場。こちらは作業が行われている
来年までには擁壁は終る

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現在、国道1号の上に架かってる高架橋(鋼桁)。1スパン目(小田原方)

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接続した2スパン目。床板も載ってる

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そこから橋台までの3スパン目が最後の高架橋桁となる
橋台はまだ鉄筋状態

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後は型枠組んでコンクリ打って養生して・・・1ヶ月位先かな、桁架けるの

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小田原方の擁壁下の歩道。一応形にはなった

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送電線下の最後の石積みは、足場が組まれて撤去中。ブルーシート分が石積みだ

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上から見ると、もうアソコらを残すのみ
ブルーシート手前の四角い垂直は、擁壁鉄筋を組んでる
この調子なら、数ヶ月で擁壁は出来上がりそう

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小田原方のフェンスが無くなったので、階段がよく見えるようになった

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施工前と同じように通路になるんだろうか

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今はゴチャゴチャしてる部分に、通路は延びてると予想(以前はそうだった)
ただ、今度は歩道付くからなぁ。必要無い気もする
2014/07/27

暑くて寒い日

撮影日 2014年07月26日

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例によって暑い。日陰でようやく40度を切る。ガリガリ分補給

風祭から箱根湯本へ。用事&巡回を済ませると、そのまま上を目指す
今年になってから、表側からのフル自走が殆ど無いので、体力調査を兼ねて頑張ってみる

ただ、弩暑い日中じゃ死んじゃうので、ちょい涼しくなる夕方から

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塔之沢をこえ、大平台下。温度計は28度と快適
ただ、大平台でちょい足に来る。やっぱキツイなぁ

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宮ノ下から宮城野は楽なんで快適。そこから仙石がちょいキツイのだが、気温はぐっと下がる
碓氷洞門で24度まで下がって、清涼ウェアでは寒い。風も強くなってきた

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仙石で用事を済ませるとドップリ暮れて9時頃
仙石では概ね28度。これから戻るのだが「今日は帰りたくない・・・暑い下界には」

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とはいえ、月末なんで戻って仕事せんと・・・
峠超えは25度まで下がる。おまけに濃霧で視界が殆ど無い
慎重に下ったのでかなり遅くなってしまった

個別ネタは後程
2014/07/26

箱根湯本 帰雲洞 完結編


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彩色版も見付けた

いずれも玉簾の滝(現天成園)側からだったのだが

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弥栄橋側からのがあった・・・
「昨日の道去年の坂」にも載ってたのだが、暗め過ぎてトンネルがよく判らんかった
これなら向こうが見える

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そして洞門化される直前。コレが有るって事は・・・

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洞門化工事が終了した記事です。昭和38年(1963年)06月

これにより延長 13.8mのトンネルから延長 8m、高さ 4.5mの洞門になりました
トンネルってそんな長さあったんすね

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/109946/img_109946_19390842_1?1247172924


これで 帰雲洞の謎は総て解けた(気がする)
2014/07/25

国道1号/旭橋 #5 最終回 訂正有り

国道1号/旭橋_#4 の続き。今回がラスト

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#3 の前に #4が割り込む形になったが、大正元年鋼トラス橋の上流に、現橋の架橋が行われ

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昭和8年、現在の旭橋が竣工した

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鋼トラス橋と並んでた2径間ポニー木トラスの福住橋は、、、
この写真は国立公園指定記念なので昭和11年か・・・既に福住橋は無い

資料によれば、2径間ポニー木トラスが損傷し架け替えられたが、その橋を湯本橋位置に移した
というのと、2径間の変りに湯本橋位置に架けられたとある

福住橋位置にはも一つトラスの時代があったというのも聞いた事があるんだが、確認が取れて無い
この辺は不透明だ

で、この写真、どっから撮ってるの?鋼トラスじゃないか!

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前の写真、トラスが新しいのでその頃架橋か?
ポニーワーレントラス橋である。コントラストが飛んじゃってるみたいだが、雪景色らしい
オリジナルは絵葉書みたいで、下に何やら書いてあるんだが、判別できず

この橋最大の謎は橋名だ
解説には旭日橋となってるが、上流に旭橋があるのに、呼び名が一緒の銘にするだろうか?

念の為早川に架かる総ての橋を検索してチェックしてみたが、該当する物無し
(鋼トラスの旭橋は「朝日橋」名でDBにのってた。そーいや県誌もそーなってたんだっけ・・・)

2015/02/19.訂正

この曲弦ポニートラスの橋は湯本橋位置ではなく、須雲川/弥栄橋と判明しました
記事全体に係るので、別記事に掲載します
当記事の湯本橋位置の情報は間違っております。御注意ください

以上訂正


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話を戻して、この名称がイマイチ不明な鋼トラス橋は、福住橋位置ではなく、湯本橋位置に架かってる

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fe-4e/bazu55555/folder/109946/21/31542421/img_4?1406213149

昭和11年架橋が正しければ、10年後

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そして21年後。鋼トラスとしてはまだまだ行けるのだが、幅員の関係か新橋に架けかえられる
昭和32年、湯本橋となる

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昭和31年、湯本町、温泉村、宮城野村、仙石原村、箱根町の合併で、新生箱根町が誕生した
(「旧箱根町」駅伝ゴールの箱根。元々此処だけで箱根町だったのでヤヤコシイ)

昭和30年代は旧湯本町の橋梁架け替えラッシュで、湯本橋と共に片倉橋(滝通り)、
須雲川の弥栄橋等々が新しくなってる
旧湯本町だけではなく、新箱根町のアチコチで土木工事が行われ、文字通り新しい町造りが行われてる

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旭橋も前後接続が良くないので渋滞の原因になってたが、
昭和43年、上流側に新旭橋が架けられ、上下分離通行になった
これで渋滞が解消した。その頃はね
(新旭橋は、橋長 42m、幅員 6.75m+1.5m、鋼下路箱桁。橋名正式には「新」は付かない)

さて、これで旭日橋の歴史は一通り解説できた
まだ不明なトコもあるんで、追加調査で判明したらその時にまた

体系を纏めてみました

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最後に、現在土木遺産に指定されてる旭橋は、明治26年では無く、昭和8年架橋です

日本初(最古)のコンクリ橋は明治37年位?、筋の人が頑張って調査してる
橋マニアがピクピクしちゃうよ!

≪旭橋編、完≫
2014/07/24

暑いとしか言えない

イメージ 1

いゃぁ、午後は外に居ない方が良いんじゃないか、という程気温上がった
日陰に入っても、触るモンが皆体温より温かい感じ
汗はかくんだが、全然気化しないんで、清涼ウェアの効果無いし
もうカキ氷食らって体温下げるっか無い

という訳で出張る時間は空けられたけど、図書館で涼んでたよ
コピる資料結構あったから、色んな方面の進展がありそ

2014/07/22

国道1号/旭橋 #4


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旭橋の木桁橋の写真(絵葉書)が出てきたゾ。さてどうする?

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3枚の写真を見てて、AとCが同じ3橋脚、欄干形式なのに気付いた
欄干支柱を数えてみるとこれまた同じ
AとCは同一の橋で、川下側から見てるのがA、Cは川上側からだ
色が違うのは、モノクロ写真に彩色してあるからで、元の色では無い

Cに写りこんでるオトーサンは、Aでは対岸欄干の向こう側に隠れて見えない・・・
じゃない、Aは桁が綺麗に円弧を描いてるが、Cはズレが出てちょいと歪んでるみたい
Aが架橋直ぐ、Cはちょいと経ってからか

さするに、AとBの二本の橋という事になる訳だが・・・

福住橋位置に架かってるんじゃないか、、、というのは、
右岸(写真左手)に3階建の金泉楼・萬翠楼が見えないから違う

木トラスが移される以前に、これらの橋が架かってたのでは、、、とある理由で違う(後述)

そうだ、どっか余所の箱根湯本の橋なんじゃ・・・ドコだよ!

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やっぱり此処に架かってたよなぁ。ちょい角度が違うが

実は入手した時点から旭橋位置の古旭橋と判断してました

問題はどーやって説明するか、なんだが。昔の旭橋ですと言っても「嘘~」とか言われそう・・・

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2径間ポニー木トラスの福住橋と上流木桁橋の旭橋の写った奇跡の一枚
コレを見つけたからこそ、このレポが書けるのだ

明治26年に福住橋位置から木トラスが移設された後、大正元年に鋼トラスが架けられるまで、
旭橋には、木桁橋の時代があったのです

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さて、ABの木桁橋とCDの鋼トラス橋。時代順に並べてみたいと思いません?
鋼トラスは当然後期ですが、CとDどっちが古い?

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実はこの通り。そのままの順番です

こんなトコで別のマニアックな知識が生かされるとは思わんかった
当ブログではお馴染み、ハエタタキ(架空裸線路支持柱)が決め手となります
ハエタタキについてはコチラを参照ハエタタキ(架空裸線路支持柱)のお勉強 #2

多分全部電話回線で、宮ノ下に電話の入った明治34年以降 (故に木トラス移設の明治26年以前では無い)

AでMAX8回線、Bで12回線、回線はさらに足りなくなり、Dで16回線に増設されてる。Cはその途中
BとCは意外と時代が近い

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電話が通じて9年程の明治43年、温泉宿の電話一覧

湯本交換/湯本11本、塔之沢9本
宮ノ下交換/宮ノ下5本、底倉4本、小涌谷2本、芦之湯2本、木賀1本、強羅1本
箱根交換/元箱根1本、箱根町1本

これは宿だけだから、地区郵便局毎に1本(当時、郵便・電信・電話は纏めて逓信省の管轄)、
宮内省関連(後の宮内庁。離宮・御用邸)、公的機関(役場、観測所)、
重要人物の別荘など、、回線はもっとあった筈

旭橋から塔之沢方面への回線は、湯本交換局内の塔之沢各戸9本
残りが宮ノ下、箱根交換への回線と思われる

回線増加に伴い、通信電柱が架け替えられてる時だった、、というのも幸運です
(実は 塔之沢の熊野神社 でハエタタキ柱を見つけた時に鋼トラス旭橋の写真を「つい」使ってしまいました。
その時はまだ此処まで掴んで無かったので、突っ込まれなくて良かった)

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さて、次は木桁橋が同じというのを確認すれば・・・あれ?欄干支柱の数が違う
橋脚もA'は木じゃなくて石かコンクリートみたいでのっぺりしてる

違う橋かも知れません。また追加か・・・
ただ、元写真では通信電柱の写り込みが無いから、木桁橋順の特定はできない

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別の2径間木トラスの福住橋と見比べてて気付きました

黄色枠/萬翆楼屋上テラスは確認できないけど、
ポールみたいのが立ってて、それで震災前と同じなんすが、
a橋は親柱があって、それに欄干が繋がってる

b橋はトラスにそのまま板張り付けてる

a橋の方が新しいみたいですね。竣工に近いか?逆にb橋はどーしてこうなったんだろ

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となると2径間ポニー木トラスの福住橋がいつ架かったか気になる
案内誌等を漁ったのだが、写真が古いまま掲載されてるのがあった

コレなんか明治20年の書だが、明治18年の木トラス橋じゅなく、以前の橋の時の写真が使われてる
出版されるまで時間かかるというのもあるし、
宿自身が変ってなきゃわざわざ差替えないというのもあるかも

発刊時に、その橋が架かってるとは限らない。注意が必要です

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見付けた中で一番古いのがコレ。明治43年6月25日の箱根案内
うぐぅ、、思ったより古いな。もっと後だと思ってたのだが

ぉ、親柱欄干が有る。やはりa橋は竣工時の姿なんですね

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fe-4e/bazu55555/folder/109946/34/31537334/img_11?1405994927

実は明治期の終わり、神奈川県西部には何十年に一度の水害がポンポン発生してる。原因は主に台風

堤防が切れて橋が流されるのはちょくちょく有るが、
赤マークは足柄上下郡に洪水発生等在り、県内で橋梁3ケタ被害が出た災害の発生した年
恐らく橋脚のある橋は殆ど流失か損傷してる

特に明治40年、43年、44年は甚大な被害を受けてる

明治40年(1907年)08/24。湯本雨量250mm。早川2m増水。決壊洪水流失と被害を受けた
24日後の09/17に再び被災。湯本雨量400mm。堤防等切れたままなので、洪水被害大
木賀で山崩れが発生

明治43年(1910年)08/07~09連日100~200mm以上の雨量、08/13.湯本340mm、箱根350mm(1日で)
数日間で980mmを超える。早川水位不明芦ノ湖水位3.29m増水し早川は非常に出水
県内数千箇所で山崩れ。塔之沢福住楼流失。関東一円に被害いわゆる関東大水害

明治44年(1911年)06/19。07/26。箱根350mm。水(増水?)は福住橋を上回る。08/09。250mm以上

データは神奈川県下風水害紀要/神奈川県観測所からだが、
土木・地史の方を当たってないので、実被害は別の年の方が酷いとかあるかも

それに基づいて橋梁を置いてみたけど、これだけ発生してるのだから、
写真の無い橋も含めて、もっと沢山の橋があったと思う

2径間ポニートラスの福住橋が明治43、44年の水害で壊れなかったというのが不思議
欄干が無くなったのは水害で持ってかれたのか?

木桁橋の時代は、電話回線数でも少し絞り込めるか・・・

そもそも、移設した木トラスがどうなったのか、非常に気になる
明治18年最初の架橋から20~30年は持つだろうと思ったのだがなぁ

ここら辺も、も少し調べてみたいと思います

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fe-4e/bazu55555/folder/109946/34/31537334/img_12?1405994927

そんな訳で、福住橋位置から移されて旭日橋トラス橋から、大正元年に鋼トラス橋が架けられるまで、
旭橋位置にはこのような木桁橋が何世代か架かっていたのです

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fe-4e/bazu55555/folder/109946/34/31537334/img_13?1405994927

時には応急的なこんな橋も

民設の道路も国道に切り替わり、ようやく鋼トラス橋が架かる事になります

≪続く≫
2014/07/21

国道1号/旭橋 #3


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旭日橋木トラス(M18)が移ったので、今回からは本来の旭橋中心に

なぉ、旧旭日橋の場所、とすると書いてる本人も混乱するので、橋の架橋位置は図の通り、
旭橋位置、福住橋位置、湯本橋位置と明記する事にする

「福住橋(M26)」のように後ろに括弧付けで入ってる年号はその橋の架橋年を意味する
(M=明治、T=大正、S=昭和)

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明治26年、旭日橋(M18)の木トラスが、福住橋位置から旭橋位置に移ったのは
明治27年7月の「箱根温泉案内/森田富太郎」でも確認できた

「昨年対岸に新道を開きもとの旭橋をやや上流に移し」
「鉄道馬車を下れば旭橋の跡に福住橋を架設」

添図は#2での明治30年写真の橋で、この橋が明治26年に架けられた福住橋であるとも確認できた

移ったと言っても、文章だけじゃなぁ・・・写真は?


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どや(どや顔で

福住橋(M26)と、上流の旭橋位置に架かる旭日橋木トラスである

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しかしながら、旭橋位置に架かる木トラスの写真はコレしか見つかって無い
#2の遠景も解像度ギリで載せてみたが、形状として同じトラスと確認できる、、と言ったトコか

箱根温泉案内の状況証拠もあるので、まず間違い無い



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#1 で掲載した現橋の旭橋(S8)の工事写真。コレ以外にも在る
元が小さいのであまり綺麗では無いが、なるだけ大きく判り易くした

旧橋である旭橋(T1)と共に工事の様子を見てみる

旭橋(S8)の着工は昭和8年1月12日
足場を組んで橋の床板(路盤)となる部分の鉄筋コンクリを打っている

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出来た床板の上にアーチと柱になる型枠を組んでる

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型枠を取り外せば、ほぼ完成
昭和8年8月15日竣工(「神奈川土木行政のあゆみ」本文では8月になってる)

現橋のプレートでは昭和8年6月竣工となってるが、
6月29日にこの段階では、翌30日に開通出来たとは、ちょいと考えられなかったりして・・・
(ナニカジジョウガアルノダロウカ)

されはさておき、旧橋の様子も見れたので、現役の頃の様子を

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先代の旭橋(T1)

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神奈川県誌/大正2年によれば

鋼製、橋長 17間=30.1m、幅員 2間3尺=4.55m、大正元年(1912年)12月架橋
(なぉ大正元年=明治45年、明治天皇崩御により7月30日改元)

昭和8年新橋架橋にて撤去

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ポニー(左右の主構のみ)プラットトラス(中央から逆ハの字)

上横構が無いのでトラスが倒れないよう、張出しが外側に付いてる
早川に対して斜めに架かるスキューが付いてる

工事写真の左側トラスをよく見えば、同型トラスと確認できる。故に工事写真に写ってるのは、この旭橋(T1)

新橋は旧橋の上流側に架けられた。という事になる

先の写真(絵葉書)、「箱根湯本早川清流」と銘が入ってるだけなんで、
旭橋か?と突っ込まれないように

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2枚目、彩色カラー。こちらはちゃんと旭橋と名が書かれてる

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3枚目。早川の上流から

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ちゃんとプラットトラスと確認できる

また、トラスの向こう側下流に、2径間の福住橋が(大分隠れてるが)見える
震災後の福住橋の写真でも、木トラスの間から、上流の旭橋トラスが垣間見える

同時期に架かっていた両橋の確認が出来るとはラッキー


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現代に戻って、湯本橋から上流の旭橋(S8)
あの隣コチラ側に旧橋である旭橋(T1)が架かってた訳だ

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右岸(宮ノ下側)のアヤシイ場所

もっとも旧橋は石積み護岸に組み込まれた橋台に載ってた訳で、
それがそのまま残ってるとは考えられない...が

「川に張出してるのが邪魔!」さっぱり見えない

以前はこんなの無かったのだが、その頃を思い出せる訳もない

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現橋との境

護岸は現橋の為引っこんでる
桁を載せる部分が造られてるからだが、平石積みが現橋施工時のもの
乱積みがその他なのだが、平石積みより古いのか新しいのかちょいと判らない

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左岸(小田原側)は御覧の通りで、旧橋遺構が有ればとっくに気付いてる訳で・・・

旧橋である大正元年橋の跡は残って無いみたいです


残念なのが明治26年に移された旭日橋木トラス単独の写真が見つかって無い事
資料調査は続けるので、見つかった時は御報告します

なにせ「旭橋」で見つかったその他の橋は、こんなのだからなぁ










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も、、、木桁橋だとぉぉぉぉぉ!

≪終れない、続く≫
2014/07/20

国道1号/旭橋 #2


旭橋(旭日橋、朝日橋)を語るには、古橋に付いても触れなければならない
旭日橋跡に架かっていた橋達である

それは福住旅館の歴史と深く関わっている

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箱根湯本温泉の始まりは天平十年(738年)と言われている

福住旅館の創業は寛永二年(1625年)
安政年間(1854年~1860年)の七湯方角略図にも「福住」と描かれてる

全体図左下の東海道/三枚橋から別れた道は早川左岸を進み、早川を木橋で渡って湯本(福住)に至る

勿論、福住創業以前より、木橋は架かっていたであろう・・・
しかし、凡そ数百年間、殆ど同じような木橋だったのが、明治期に姿を変える事となる

なぉ、今回 「福住旅館 金泉楼・萬翠楼(箱根町郷土資料館)」 から多く写真等参照してる
独自に集めた奴もあるのだが、同書は明確に纏められてて、
時代や順番などで悩んでたのが一気に解決した

また、外観だけでなく、竣工時の内部の様子など、建築的資料としても大いに価値があると思う

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有名なベアトの写真。明治初期
慶応3年(1867年)に火災で全焼した後に再建された「福住」はまだ古風な造りである

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旧東海道側からの湯本。左から流れてくるのが須雲川、中央向こう側からが早川である

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↑の部分拡大。須雲川と早川に架かる木橋間が「湯本」のメインストリート
上部に拡大した早川の木橋は、いかにもな造りで、大水では壊れるの前提である

どうせ流されるのだから、架橋コストを抑えて「壊れてた直す」という事だろう

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当時は箱根湯本すら人力車なとの車物が来るのは殆ど不可能であった
東海道と言えど山岳部はナローな造りで、
板橋~風祭の間の御塔坂ですら難所のひとつだった(撮影/ベアト)

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「福住」に転機が訪れるのは明治初め

過去の経験から、耐火性に優れた洋風木骨石造3階建てを建築する事となる
左側、金泉楼は明治10年6月に、右側の萬翆楼はまだ建築中で、明治11年中に竣工する

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この後も古い写真が続くんで、イキナリ現実に戻してみる
旭日橋跡対岸右に明治10年に建てられた金泉楼が見える

先の写真の木橋は、現在で言う「旭日橋跡」に架かってるのだ

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萬翆楼完成の頃、明治12年頃
この木橋は以前の場所と違い、左側金泉楼前に架かってる

現在も残る福住旅館 萬翠楼・金泉楼は、平成14年12月26日 重要文化財に指定された
萬翆楼/明治11年、金泉楼/明治10年6月に竣工

文化庁/国指定文化財等データベース
http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp

萬翆楼福住
http://www.2923.co.jp/


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そして人道木橋の代りに、明治18年(1885年)9月、木製トラスの旭日橋が架けられる
橋の上に人力車が居るが・・・

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明治8年、明治15年と造られた新道によって、通行が可能となったのである
この新道も福住旅館/福住正兄によって開かれた

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明治期の箱根湯本の写真だが・・・

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明治18年架橋の旭日橋が在り、明治21年開業の馬車鉄道が無いので、その間の写真と判別できる
御覧の通り、旭日橋(M18)は1径間木トラス橋である

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その後、明治19年に塔之沢まで新道は延び、
明治20年には宮ノ下まで通じる事となる(建造/富士屋ホテル/山口仙之助)

明治21年10月01日には小田原馬車鉄道が開業(福住正兄ら6名)

塔之沢・宮ノ下への通行が多くなり、明治26年には青色の新ルートを造る事となった

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再び旭日橋の写真だが・・・

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「一枚の古い写真」より箱根湯本。馬車鉄道の出来た明治22~32年(明治33年には電気鉄道となる)

旭日橋が随分奥にあるなぁ、と思ってたのだが、よくよく見てみれば福住の場所じゃ無い

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fe-4e/bazu55555/folder/109946/54/31532154/img_20?1405775370

拡大してみた。金泉楼・萬翠楼より奥に架けられてる
逆に金泉楼手前にある筈の旧旭日橋が見えない。何か橋が架かってる風だが木の陰
目立つトラスでは無いような・・・

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fe-4e/bazu55555/folder/109946/54/31532154/img_21?1405775370

明治期の箱根湯本/馬車鉄道駅の写ってる写真は絵葉書版もある
複写印刷物からなのでハッキリしないのだが、「一枚の古い写真」と原版は同じだと思ってた

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fe-4e/bazu55555/folder/109946/54/31532154/img_22?1405775370

旧橋辺りを拡大して画像補正してみると・・・居る。金泉楼手前にトラス橋が!
逆に奥のトラスは「まだ無い」

(他にも畑の小屋が在り無しなど、細かいトコも違う)


なんと言うことか!「旭日橋は現在の場所に移された」というのは、橋の名称という意味で無く、
物理的に橋を移設したと言う事か!
これは知らんかった(というか、名称だけ移ったと思い込んでいた)

馬車鉄箱根湯本の写真も、絵葉書版は明治22~26年、一枚の古い写真版は明治26~32年と、
更に細かく絞り込む事が可能となった


旭日橋としての歴史は、新橋へ移るのだが、福住の橋についてもう少し・・・

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明治30年の福住。これが旭日橋移築後に架けられた明治26年架橋の福住橋となる(推定)

木製ポニートラスと言えるのだろうか。中央に主脚があるようで、その間に補強脚

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同時期の別の写真

旧旭日橋のあった明治26年までは、金泉楼・萬翠楼の前を通り塔之沢へ至る道があったのだが、
早川沿いに辛うじて人道があるだけで、塀で囲われ庭園と化してるようである

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明治42年には若干下流に別の橋。左下流側に突っ張りがあり、木桁橋か

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そして福住橋としてはお馴染みの2径間木製ポニートラス橋。主脚以外に補強の脚が付いてる

当初この写真は大正前期と思ってたが、
右側萬翆楼は屋上テラス造りが震災で被害を受け、普通の屋根へと改築されてる

なる程、建物変化でも年代の特定になるのか

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するとこの写真が震災前という事になる
(萬翆楼屋上テラスの端に円筒形の構造物が有る)

2径間木製ポニートラス橋は震災で被災しなかったようだ


福住橋の歴史は、も少し続くのだが、ここで一旦終了しよう ≪続く≫