昨日見付けた3椀木のハエタタキ/架空裸線路支持柱のレポートである

まさか3椀木のハエタタキが見付かるとは思ってみなかった
今回識別コードは「T3h*」としている

T3h1は見付けた中で一番原形を留めている
3本の椀木と押金・受金がちゃんと残ってる。碍子は現存しない
T3h2は一番下の椀木と受金のみ

振り返ればT3h3

T3h3は崩壊寸前の様子で、3本の椀木と1本の押金がぶら下がっている
支持柱にはちゃんと椀木スリットが掘り込まれてる

T3h3の先、小屋柱みたいに見えるが、次のハエタタキが立っていた
T3h3側に椀木スリットが見える
(今回のシリーズは早川側に椀木/スリットが存在する)

T3h4側から、T3h3が辛うじて見る事ができた
過去には間に別の支持柱があったかも知れない

いったいどれ位の間、風雨に耐えてきたんだろうか、、、

恐る恐る触ってみると、意外としっかりしていた
柱右側の線は接地線で他の支持柱にもあった。おそらく避雷用

T3h4を離れて見ると、小屋に電気を引き込む為の電柱に見える (右下は他の小屋、比較用)
その向きにも使われたかも知れないが、移設して・・という可能性は低いだろう

今回の「T3h*」シリーズは、早川駅から石橋の間、ほんの一部分に存在する
そもそも架空線路が k1、k2、k3、と存在するのもちょいと変だが、
コレは時代によって経路が変更になった、、、か、通信支線の関係で分線されていたか、、、
何れか、両方の可能性があると思われる
(k2、k3は途絶えてるように引いてるが、跡があった部分のみなので、架空線路的には延びていたと思われ)
もし「時代的に古くてコレで全回線」という仮定するとなると
旧熱海線/架空裸線路支持柱の考察で関東大震災時(大正12年/1923年)に4本椀木だったので、
それ以前という可能性はある
ただ、震災以前のハエタタキの椀木数は未確認である
熱海線の早川~根府川(実際は真鶴まで)開業は、大正11年(1922年)なので、
震災前に回線数が増えたにしては期間が短か過ぎる
となると分線説の方が利に叶ってるかな
本ルートはk2かk3だが、通信支線用としてk1に3本椀木の別ルートが後に造られた・・・とか
(突っ込み所はあるけど、一番矛盾が無い気がする)
色々不明な点が多く、また資料も見付かって無い分野なので、この謎は解明できるか判らんが、
何か進展があればその時に
見なかった事にするのが良かったか・・・
(それ程この件は謎だらけ)