
国道1号から芦之湯に入る道に石碑が建っている

「箱根新道之碑」
1962年開通の湯本~箱根のバイパス道路とは関係ない
明治37年に開通した新道を記念する石碑である

ええと、赤ラインの部分だけでも・・
「新道は温泉村宮ノ下を起点とし、箱根町に至る」
「幅二間三尺(約4.5m)、長さ七千三百四十四間(約13.4km)」
「(明治)三十五年三月着工、(明治)三十七年五月竣功」
現在の国道1号、宮ノ下~箱根(字名、関所のあるトコ)間の開通を記念する碑です
中心となったのは芦之湯松坂屋の松坂萬右衛門

「箱根、主な道路と開通年」色付きは民間が開いた道
時は明治、箱根山も交通機関の近代化が進み、次々と道路が開削されてゆきます
[紫]1880年(明治13年)、 板橋-湯本、報徳結社(福住正兄)
[青]1881年(明治14年)頃、湯本―塔之沢、地元有志
[桃]1887年(明治20年)、 塔ノ沢-宮ノ下、山口仙之助(宮之下富士屋ホテル)
それに続けと宮ノ下-芦之湯-箱根の道路工事が行われた (赤線)

「七湯道と現在の国道の比較」
それまでの七湯道は人馬道、急坂あり難所ありから、勾配を緩和させる為にヘアピンを造ったり、
ルートを迂回させたりと線形には苦労したようだ

この時の道はどんなだったのだろうか、、、恐らく芦之湯付近からの写真

こちらは芦ノ湖手前の写真
道路として4.5m幅では、一車線位しかない。勿論すれ違いの待避場所は造られただろうが・・・

こんな道を大正元年からは貸切自動車、大正八年には乗合自動車が静岡県まで行き来していた
塔ノ沢-宮ノ下-仙石-長尾峠-御殿場は、陸軍の要請などもあり幾度か工事が行われ、
勾配や曲線、道幅なとが改良されていった
だが、宮ノ下-芦之湯-箱根間の道路については、改良の情報が見つからなかった

関東大震災の際にも、被害を受けたが、塔ノ沢-宮ノ下の壊滅的被害に比べると然程では無かったようだ
あちらは早川沿いの渓谷を行くのだから、当然なのかも知れない
この時も復旧は行われたが、改良まではされなかったようだ

昭和に入り、本格的に自動車交通に対応する道路へと内務省が中心となって国道改修工事が行われた
昭和11年(1936年)のこの資料では、小田原から塔ノ沢までの工事が終了している

同資料中本文より、色分けは各部分毎。赤マークの宮ノ下-箱根間には、こう書かれている
「急勾配中における急屈曲箇所数ヶ所あり、幅員も僅々4.5mの狭隘(きょうあい)なるものにして、
特に冬季自動車の運行には危険甚だしきものあり」
4.5m幅というのが開削時の幅だが、後の工事記録によると6m幅の部分もあったりして、
一概に全線「狭隘」では無かったようです
それでも開通から殆ど手が入ってなかったとは驚きです
内務省直轄等の工事は、それ以降も継続され、昭和14年の記録まで残ってました
この間に塔ノ沢-宮ノ下-芦之湯-元箱根-箱根、各所で工事が行われています
以前レポした宮ノ下、小涌谷旧道は、この時旧道落ちしました(あるいは廃道)
先日の箱根でもお伝えした通り、昭和の改良工事以前の道はまだ一部残っています
まだ探索中の部分もありますので、明確になった所から公開してゆきたいと思います