2022/07/05

乗合自動車/松田駅関本線

01_202207050207318df.jpg昭和9年乗合自動車路線図足柄版で出た足柄自動車だが、
十文字橋史等で扱ってるんで、結構情報が集まってる
大正10/1921年開業路線の松田駅構内~南足柄村関本1421の路線についてまとめてみた

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大正10年のこの時、小田原急行鉄道(小田急)はおろか、

大雄山鉄道(伊豆箱根鉄道大雄山線)も開業しておらず、

動力交通機関として関本に乗り入れたのは初だ

(人力車・馬車の運行は行われてた。明治28年の十文字橋通行収支より)


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省線松田駅構内は場所判るとして、、(開業時の写真だが)


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関本1421ってドコだ?と探すと、後の資料だが飯沢になるらしい

飯沢1421だと大雄橋の先、大真橋の手前辺りとなる


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大正11年の写真だが、恐らくこんな風に乗車場が設けられてたと思われ

(この写真は松田駅側か、飯沢側か判らんが)


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開業の大正10年、神奈川自動車案内によると、松田関本間として記載があり、

【ピンク枠】定時的に乗合自動車の運行が行われてたようだ。運賃は70銭

それぞれの発時間を見ると僅差のケースがあるんで、複数台で運行してたと思われ

【赤枠】下は貸し切りで今でいえばタクシー的な運行もしてた


70銭が高いのか比較しようと思ったんだが・・・


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大正14年の三都中心 名所の旅にも書かれてて、他の交通機関も乗ってるんでコチラで


松田-関本間の乗合自動車ちょいと安くなって50銭

馬車(多分乗合)が35銭で人力車(まぁ一人乗りだし)が70銭だから、金額的には間

所要時間が20分と早い。てなメリットはあった筈

距離約1里=4kmとすると時速12km程で走ってた

(現代地図で計測すると6km。時速18km)


でもコレじゃ貨幣価値的に判らんので、鉄道料金と比較してみる

鉄道が東京から松田まで1円38銭

現在のJR東海道本線~御殿場線で1520円、、、東と東海で計算別か

沼津から松田まで81銭。現在のJR御殿場線だと860円

っう事で乗合自動車50銭は530円位になる


現在のバス運賃は、箱根登山バスでJR松田駅入口~大雄橋(最も近いバス停)が410円

そこそこリーズナブルな気がする(まだ自動車が珍しい時代としては)

(箱根登山バスは新十文字橋など、新しい道を通るんで経路はちょい違う)



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2022/07/03

昭和9年乗合自動車路線図足柄版

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国立国会図書館デジタルコレクションで見れる全国乗合自動車総覧

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事業者毎路線の起点・経由地・終点と開業年月の載った大変便利な資料

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こんな自動車が使われてたらしい

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例えば、酒匂川に架かる大口橋
人道橋か車両が通れる橋なんか、橋データを探さねばならんが、
この総覧に載ってれば、
そん時は車両通行可能な橋が架かってた。って事になる

とは言え、何十とある事業者ん中から探すんは大変だ。てな事で

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路線図にしてみた。一応昭和9年頃にあった道を経由するよう、線引いてる
大口橋があるんは関本と山北駅の間だから・・・

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該当する道了山自動車を見ればよい
うむ、ちゃんと岸-大口-怒田/県道小田原山北線(旧道)を通ってる
開業は昭和5年7月22日だから、そん時は車両が通行可な橋が架かってた訳だ

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大口橋は吊橋から昭和3年にRC橋に架け替えられてるから、通れるんは知ってたんだがな

すぐ傍の岩流瀬橋は路線通ってないんで、この手法では判らんとかはある

まぁ橋だけでなく、道路のスペック的に自動車が通行可能なのかも判る

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個人名が書かれてる事業者もあるが、合資会社・株式会社以外個人名なんで、
法人化されてない事業者なんだろな
車のオーナーが趣味的にやってる風ではなさそ

しかし難解なんが起点・経由地・終点の場所探し
旧住所は判るモンもあるが、字名がヒットしないの多くて、ある程度推測してる

特に上倉定吉氏の経由地「小金下押町前」って何の事だ?
小竹から国府津駅まで、押切を経由するっか無いから間違いなんだが、
コレは何処の事なんだろか・・・
「小」竹「金」?「下」(という字がある)「押」切「町」?「前」川
だと思うけど、「金」ってドコだ!

多分図の更新はしないと思うけど、県西位は頑張ってそのうちなんとか

2022/07/01

旧相模川橋(相模河橋)弐

前記事「旧相模川橋(相模河橋)」の追加情報です

まずは相模川の歴史なんすが、古代は非常に厄介で、
真っ当に始めると関東平野沈降の秘密にも触れねばならず、
終わんなくなっちゃうので、さらっと

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古代、相模川は多摩川に流れ込んでて、鶴見川に流れを変え、
境川に移った事で相模湾に流れるようになりました
その後、西進し引地川を経由し、現在の流域となりました
何故?そのような地殻変動があったからです

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その結果、相模原にだだっ広い段丘が出来、下流には結構深い谷を削ってます

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地形分類だと、このように

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そののち、約1万年前の氷河期で海水準低下し、
氷河期の終了で縄文海進が起こり、ピークは約6000年前
その後、海水面は元リ、現在の姿となりました

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現代地図だと、こんな感じです

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相模川河口付近の複雑な地形は、海進と戻りが関係してるらしく、
この資料が非常に良く描かれてて、参考になります。・・・マジですか!

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この説が正しいとなると、茅ヶ崎側の旧河道は縄文・弥生の頃に形成され、
鎌原時代どころか古墳中期には結構落ち着いた流れになってる

ぐぬぬ、旧相模川橋脚のあるトコに流れるには、紀元前に戻らんといかんのか

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その説の妥当性を見るんに、
自然堤防(微高地)の遺跡をチェックすると、結構あるんだな

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河口近く。なる程、小出川左岸には結構遺跡があって、
古墳時代にはここらは形成されてた事になります
逆に右岸(平塚側)には無いのが不思議

また、茅ヶ崎市中島(旧中島村)は昔、大住郡中島郷で、平塚側に属する
(茅ヶ崎側は高座郡)
古相模川は(この図において)小出川筋を流れてたとする根拠の一つになってる

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新編相模国風土記稿にも、古相模川の表記がアチコチにあって、
中島村は新旧の相模川に挟まれていた

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今宿村には古相模川が流れてて、筏川とも言われた
長50間(90m)程、幅30間(54.5m)、さながら池の如し

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柳島村でも相模川は二分してて、須賀村(平塚側)に添うのが今の相模川(幅30間/54.5m)
当村に添うのは古相模川(幅50間/91m)

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下町屋村を流れる赤地川は現在の小出川ですね

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地図に当てはめるとこの様になります(画中赤池川間違い→赤地川)
今宿の産業道路入口交差点の南側、K46沿いに「旧筏川広場」があるんで、間違いなさそ

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その他の資料でも、元相模川や元古川表記があって、
弥生の頃から語り継がれてるので無きゃ、もう少し後の時代でも流れてたんかも知れません

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旧相模川橋脚の資料も見直してみました
川の護岸として土留があるんは、図の上側だけで、反対側には見つかってません
ひょっとしたらP4まででなく、もっと先があった、、んじゃないかな

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大正関東大震災で出現した時の写真です。P1~P4並んで見えるんは、
写真手前側が土留護岸のある方。P4の向うは田圃が広がってる
その先対岸微高地までが旧河道だとしら、橋はもっと長く架かってたかも知れない

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(こちらの図でも赤地川が赤池川になってる。突貫なんでミス)
まんず、何故此処に橋架けたか、ですが、、
江戸時代の街道は旧河道が干上がったのか土工したんか
赤線で旧河道を横切ってます。赤地川(小出川)の小さな橋だけ架けてる

鎌倉時代は土工出来ず橋架けるしかない、、としたら、短い距離の方にしますよね
黄緑のルートを通ってたと推測
なぜ橋架けねばならんのか、、、
赤地川だけでなく、相模川もソコ流れてるとしたら橋架けるしか無いてすからね

旧相模川橋は、柳島村の50間(91m)を越える橋だったと推測
P4の一本を残して先は、後の水害等で全部流失したと考えられます

コレなら旧相模川橋流れてたんは、小出川だったという件もクリアしつつ、
旧相模川を此処に通すのも可能

推測される旧橋の規模は、91m位
径間長が10mのままなら、9径間(11径間)という形になります

どないだ?勿論、根拠は薄い
(事前調査無し速攻で纏めた割には形に出来た)


2022/06/28

旧相模川橋(相模河橋) 追記あり

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先日の某国営放送の大河ドラマ(お察しください)

地元が沢山出てき、楽しんでるんすが、いかんせん人物像中心なんで、
もっと地域色のあるのがあったらな~
なんて思ってたんすが、先日の25話で稲毛重成の相模川架橋の件の話が!
(頼朝の落馬?ん、そんなんもあったね)

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なんと映像が!!・・・・・・何処の相模川だ?え?5径間?
と突っ込み満載

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さて、相模川の何処いらを想定してたんだろ。鎌倉時代の東海道は、、、
しかし、あの川の幅は、、と現代地図(航空写真)を眺めても判らん

そもそも相模川は河口から数キロは海面高と一緒で、
河口近くには須賀港が設けられてる
あんな幅狭なんは、もっともっともっともっと上流なんだろか

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と思ってたんだが、番組の最後の紀行でネタバラシ
やはり茅ヶ崎の旧相模川橋脚だよね
大正関東大震災で田圃の中からニョキニョキ現れた木橋脚
(今見えてるのはレプリカ)

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出現した橋脚が、鎌倉時代の橋跡と言われている


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この遺跡があるんは新湘南BPの茅ヶ崎西IC辺り
こりゃ相模川のじゃなくて、そこいらを流れてる小出川のじゃね?
と思われるかも知れんが、、、

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そこいら一帯は相模川の氾濫領域
治水されて無かった時代には結構勝手に流れてた
補足.この図の説明があんまりだった
黄色無地が自然堤防。黄色半円が砂州・砂丘。青横線が旧河道。薄青が氾濫平野

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実際、茅ヶ崎側は低地が多く、東海道本線より下は昔河口であった可能性もある

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いつの時代だよと思われるかも知れんが、
相模川河口近くは、ついこないだの明治頃には、こんな流れだった
(水色マークが現河川)

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大正期にはかなり整備されたが、
この後大正関東大震災で護岸・堤防はメチャクチャになる

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その後整備されたのが、概ね現在の姿
(細かいトコまでは調べて無いんで、だいたいの話)

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さて、件の相模河橋の姿だが、
史跡・天然記念物旧相模川橋脚の保存整備」に記載があった(図は北が斜め左)
【青】橋脚は3本が一対、4組が並ぶ配置
【水色】川は北西から南東に流れ、【青】橋は北東から南西に架けられてた
【赤】橋の規模は横幅約9m、橋長は40m以上あったと推測

図のスケールから径間は約10m。橋長40mであれば5径間となる
ぐぬぬ、某国営放送のは正しいのか

勿論、後年に河川整備で消えてしまい、実はもっと多径間だった。とか
相模川の流れは幾条にも流れ、此処はその内の一筋に過ぎんかった
とかも考えられる
そもそもどんな橋架けたか、記録が無いんで、細かいトコは判らんのだ

径間が10mとは、木橋としてはちょい広すぎな気もするが、
もはや流れの殆ど無い処に架けられたとしたら、
河川橋というより湖沼に架けられた橋という形ならアリだと思う
(そこいら一帯は低湿地・沼地で、
街道のみ土盛石積護岸で整備され通行したと考えられる)

まぁ国内最古の木造橋遺構というだけでも、非常に価値があるんだが

6/28追記
旧東海道と旧相模川でもう1本書けるかな、と追加調査
ィャマテ、何処かで見かけた記憶があるなぁ

地誌のはざまに」さんトコの

大凡の事が書かれてるんで、詳しくは参照(他力本願
当記事の地学的なのと合わせると、旧相模川が良く判ります

俺も旧小出川だったんぢゃないかと思ってたんだよ(負け惜しみ)
たんだ鎌倉から江戸の間に東海道の整備は進んでるし、
農地整備の為の排水も行われたと思うんで、
鎌倉時代のここいらは、もっと混沌としてたと思ってます



2022/06/18

足柄峠新道計画

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今回は足柄峠にトンネルとか新道を造る話だが、
かなり厄介で出てきた情報も間違ってたりするんで、本記事が正しいのか判らん
そこんトコご了承ください

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足柄峠にトンネルの話は昔もあったが、2017年に再発した
タウンニュース記事によると道路名は「富士・足柄道路」で
南足柄市大雄町(最乗寺と参道とかの辺り)と
小山町向方(小田急線じゃない方の足柄駅の山側)の約32キロをトンネルと道路で結ぶ・・・

ぃゃ、そもそもその間は32キロもないゾ。御殿場大井線(SK78、K78)の
大雄山駅と足柄駅(小田急じゃない方)ナビ距離ですら18キロ弱
しかも大雄町はK78に接して無いんで、ドコをどう通るんや
(前地図の緑線がイメージ)

しょっぱなから悩む

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カナロコの方が前の道路計画書いてて詳しい
1985年に「足柄有料道路」で計画され陳情も行い、91年に調査もしたが頓挫

最初(かどうかは今だ判らん)の計画は没になった

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その最初の足柄有料道路が描かれてるのがコチラ
小山町内しか描いてないから全体像は判らん
SK78よりちょい上(北)っぽいトコ通って足柄峠に向かい、トンネルっぽく通ってる

この図には東名小山インターが描かれてて、当然そんなモンは無い
足柄有料道路は小山インターとセットで、
早い話インターを造ってもらうには重要道路と接続が必要。という考えがあったようだ
(けどこの程度の道路で新しいインターが造られるとは考えられんが)

足柄有料道路自身の概要とか判れば良いんだが、どうも見つからん
陳情したんなら公文書で残ってそなんだがな

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てな訳で小山町のHPを漁って関係ありそなネタを探す

議会だより/平成20/2008年、町長答弁
足柄峠にトンネルを掘って南足柄市に抜ける道造るべきという問いに対し、
以前の計画の話が出、【ピンク】平成3年度に概略設計し、トンネル約5km、
2車線で整備経費は現在換算で約200億だった

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さらに議会だより/平成26/2014年では
足柄峠に1400mのトンネル云々に対し、
【ピンク】須走から南足柄市を経由して小田原市まで約32キロメートル
概算経費は値上がりして840億円まで膨らんでる

僅か6年の物価上昇か?ぃゃなにか対象が違う気がする
前は足柄峠だけの話たが、コッチは須走から小田原まで
同じ平成3年度なんで全体と足柄峠分という事かな

しかし最大の謎は須走から小田原まで32キロ(タウンニュースでは違う場所)
須走のドコからか判らんが、須走神社から小田原駅まで、直線で30キロ弱しかない
まぁ、どっか違ってるんだろな(場所とか距離とか信用できん)

没になった理由が【青】南足柄市の理解が得られない
という事なんで、単に足柄峠をトンネルでぶち抜いて、、だけでは無かったもよう
どのみち市町村で出来るんは陳情位だが、それすら嫌がれる程の壮大な計画だったと思われ

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そんな事もあったのだが、
第2次総合計画では没になった筈がアプグレして「富士足柄道路」になった
小田原から山梨を結び、富士山周辺の観光道路、骨格道路(幹線的な道路)の
バイパスとして機能する。富士ビュー・ブルーパールってなんだ⁉

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土地利用計画図を見て判った、現SK150の辺りに「富士ビュー・プルーパール」と描かれてる
富士足柄道路は富士ビュー・ブルーパールの一環、、ぃゃ、逆じゃね?
何はともあれ、その道経由で山梨に繋がる・・のはR138と東富士五湖道路か
山梨に向けて新しい道路を造るった訳じゃないのね
小田原側、即ち南足柄市の理解は得られたんだろか

道を造るのだから、東名小山インターはまだ諦めて無い

もう既に第二東名(新東名)も描かれてるが、土地利用計画自身は
前昭和60/1985年とあんま変わってない

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さいでも平成13/2001年の第3次では東名小山インターの話は無くなったようだ
しかし、御殿場大井線(SK78)と共に足柄道路の名は残ってる

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2006年(平成18年)の記事に、小山町長が語ってるんだが、
足柄峠のトンネルはまだ諦めてなさそ。こん中で1400mの話があるんで、
足柄峠単体のトンネル長はコレと思われ
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平成24/2012年に南足柄市・小山町の合同議会「きんたろう議会」が開かれ、
「金太郎有料道路」が突如登場する
これは足柄道路の事だよね?以前南足柄市とモメたから違う名にしたとか?

きんたろう議会自身は別自治体の合同だけあって、結局のトコあれだな
(なんと言って良いか判らん)
http://www.fuji-oyama.jp/attach.php/696e6465785f67696b6169/save/0/0/%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%9F%E3%82%8D%E3%81%86%E8%AD%B0%E4%BC%9A%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2.pdf
2回目以降は開催されんかったようだ

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令和3/2031年の最新総合計画では、足柄道路も金太郎有料道路も無く、
東名小山インターも消えた

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東名の足柄SAにSICが出来、
新東名の小山PA(SAじゃなかった。図間違い)にも併設されるんで、
小山インターは要らなくなってしまった訳だ

足柄峠は静かに佇むだけである・・・・・

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なんて思ってたら、またもや新しい話が出てきた
細野豪志活動報告2021総集号
https://www.gohosono.com/wp-content/themes/gohosono/pdf/activities_2021.pdf

何処立案なんか判らんが「富士山足柄道路」てのがソレだ(前のは富士足柄道路)
しかもR138(東富士五湖道路)と離れたトコ(明神峠?)から山梨県に向かってるので、
本路線だけで山梨に繋ぐらしい。反対方向は足柄峠辺りで、その先不明

足柄峠を通るっぽいけど、今までの計画とはチト違うなぁ
勿論詳細不明だ(泣笑
伊豆湘南道路も描かれてるんで、真面目な計画だとは思う(だがなぁ~)

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てな訳でここまで判ったモノを纏めると、概ねこんな形になる

最初の「足柄有料道路」1985年立、1991年概略、須走~小田原、トンネル5km、頓挫

二番目の「富士足柄道路又は足柄道路」1996年立、小山町~南足柄市、トンネル1400m、不明
(議会だよりの1400mはコッチの件を言ってたと思われ)
金太郎有料道路は変名失敗と推測

三番目の「富士山足柄道路」は一切不明

こんなトコだろうか。何か新しい情報、特に「富士山足柄道路」はホントに判らんので、
今後も調べてくつもり

以下蛇足

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足柄有料道路のトンネル約5㎞はオカシイ
両坑口を同じ程の標高とすると、足柄駅(小田急線じゃない方)の裏から、
南足柄市側K78地蔵堂トンネル辺りまで掘れてしまう
こんな長大トンネル掘るメリットはあんま無く、
他にもトンネルがあり、総延長5㎞位なんじゃないかな

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足柄峠の1400mトンネルは、同様に探すとここいらか
峠に向けて急峻となる前で、結構いい感じに繋がりそう

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最大だとここいらで2360m位
小山町側が高いんで、フラットに近いトンネルだとこんなだが、
片勾配だともっと色々ありそ